日本三不動の一 ロゴ 瀧谷不動尊

どじょう不動

どじょう不動

 このあたりでは 当山の事を「瀧谷のお不動さん」略して単に「お不動さん」と呼ばれていて、「瀧谷不動明王寺」という正式の名前など呼ぶ人は居ない。和歌山地方では、これ等の呼び名の他に「どじょう不動」とも呼んでいる。これは、昔から当山のお不動さまについて次のような信仰が伝えられているからである。

 当山のお不動さまは、昔から色々のご利益があると云はれているが、その中でも特に眼病にご霊験があらたかな事が伝えられている。そしてお不動さまに目を助けてもらおうとお願いするときに、どじょうを持って参り、これを瀧谷の川に放って、お不動さまにお願いすれば、このどじょうの目が自分の目に代わって、身代わりとなり、自分の目を明けてもらえるという信仰があるからである。

 瀧谷の川に放ったどじょうが身代わりになって、自分の目を助けてもらうという信仰は今も生きていて、瀧行場には何時もこの放生の為のどじょうが用意されていて、毎月二十八日などにはこれを川に放ち、祈願をこめて帰る人も多い。もっとも最近では、お願いは眼病平癒に限らず、色々のお願いでも皆このどじょうを放つ人が多いようである。

 さてこの川に放たれたどじょうがみんな片目であって、片目は失明して白くなっているという云い伝えがある。昭和十二・三年頃の事であったか、真言宗の本山から派遣されて当山へお説教に来られたお坊さんが、この事を住職から聞かされ、それではほんとうにそうなのか調べてみようとして、どじょうを取ってお調べになったところ、ほんとうにその通りであったので大変感心されたことがあった。この放生とは、辞書によると「功徳を積む為に魚鳥などを放ちやること」とあり、放生を行う仏事を放生会という。もともとこれは仏事であるが、陰暦八月十五日の八幡宮の神事にこれを行ったと云う記事もあるようで、神社でも行われたようである。

 このどじょう不動について忘れられない出来事がある。昭和七年一月二十八日に発生した上海事変の時、後の海軍大将、駐米大使 野村吉三郎氏がたしか当時上海の海軍陸戦隊長であったが、上海で大事な式典の最中、何者かに仕掛けられた爆弾が炸裂して、川島陸軍中将は戦死され、野村隊長も重傷、両眼も失明かとの報があった時、野村さんの出身地の和歌山県の村では、野村さんの眼を助けてもらう為、瀧谷のお不動さんにお参りをしようと衆議一決して、村中各家から一名宛出て、各々がどじょうを持ち寄って、全員揃って当山に参詣し、眼傷平癒を祈願して帰られたことがあった。この時持ってこられたどじょうはバケツに三杯もあったのである。野村さんは奇跡的に負傷も治り、眼も片目は助かって、後に海軍大将となり、日米開戦の前には、駐米大使として日米交渉に尽力されたことはよく知られている。

 ところが、この野村大将が、戦後、紀州根来寺の奉讃会長としてとして、根来寺の復興に力を致されたことも忘れてはならない。

 当山の前住職、荒谷実乗大僧正が、その当時根来寺座主を勤めて居られ、戦後荒廃していた根来寺の再興の為、老駆に鞭ち身命を賭して奮迅の働きをされたのであるが、この老僧の懇請と地方の要望に応えて、根来寺奉讃会々長に就任し、松下幸之助氏等の協力をも得て、非常な熱意を以て根来寺の復興にご尽力を頂いたのである。これもあの時、お不動さまに助けて頂いたから出来るのだとよく話されたことであるが、まことに不思議なご縁という他はない。

平成2年1月8日号「瀧谷山報」第41号より転載

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