日本三不動の一 ロゴ 瀧谷不動尊

孝子、老母の眼病に霊応を得たる事

孝子、老母の眼病に霊応を得たる事

 紀州那賀郡粉河村に岩崎伊兵衛の母、名を初(はつ)と呼ぶ七十五歳の老婆あり。

 明治三年八月より眼の光り俄(にわか)に鈍くなり、霞(かすみ)なんぞのかゝりたらんように見えたれど、老眼にはある習いなればと心にもかけず其日其日を過ごすほどに、日毎に鬱陶(うっとう)しくなりむるものから、所の医師に行きて薬を求め十日程服用したるに少しは快きように覚えぬ。さてはまだ老眼というにもあらざるかと、尚も薬を用ゆるほどに最初の如く効験も見えず。眼は益々霞ゆきて今は頼み少なくなりければ、程遠き和歌山の町に赴き或大医の治療を受けたれど別に験(しるし)も見えず。

 故に本人は最早老年のことなれば、此上は医薬を用ゆることも益なからん。今より帰宅せばやと言いぬるを、看護(みと)る伊兵衛元来孝心深き人なれば、否な否な八十九十の老人にても春の花、秋の草の憐れに美しきを見て心に楽み給う人もあり。母上はまだ身体も健やかに心に恙{(つつが)病気}もなき御身なれば、療養の仕様に由りて全癒せぬ事もあるまじと、慰め励まして此度は大阪へ行き両三の名医に頼みて種々治術を受けたれど、尚少しだも効験みえず。加之(しかのみ)ならず両眼とも遂に空しく盲いて、物の黒白(あやめ)もわからぬようにぞなりける。

 今は療治のせんようもなければとて泣く泣く帰国したりけるが、扨(さて)一日も棄置(すてお)くべきことにあらざれば、此上は神仏の威力に頼るの外なしと、伊兵衛は朝夕名も高き土地の観世音菩薩へ日参して、母の眼病平癒を祈請してけるが、或日の朝参拝祈願終て家に帰らんとする時、見も馴れぬ老僧、何処ともなく現れ出で「やよやよ」と呼び懸(かけ)ぬ。伊兵衛は怪しみながら大地に手を突けば、「善哉(よいかな)、伊兵衛、我汝の孝心(親に尽くそうとする心)に愛で、母の眼病癒ゆる術を教えやらん。是より坤(うしとら)の方、凡そ十里ばかりの所に不動明王の座しますあり。之れに参籠(神社、仏閣などに参拝すること)し深く信心いたしなば霊験忽ちに現れん」と聞くかと思えば老僧の姿は消えて無りけり。

 さても奇異なる事共かなと伊兵衛心の中に訝(いぶ)かしみて、急ぎ家に帰り、有し次第を老母に物語れば、それぞ御身の孝心を憐みて、観音菩薩の仮に姿を老僧に現し、慈教を垂玉いしならん。あな有がたや尊やと家内寄り集いて、悦び勇み扨坤(さてうしとら)の方十里程とはそもや何処ならんと評議区々(ひょうぎとりどり)なりけるが、伊兵衛の妻膝を進め、蓋は河内国瀧谷山の不動明王ならん。妾が生れし在所よりは霊験新たなりとて参詣するもの少なからず。其瀧谷山は宛も坤(うしとら)の方に当り道程も十里余りなるべしと云いければ、一同は手を拍て「それなりそれなり」と。

 夫より急かに家族親戚を呼集め伊兵衛の云いけるよう、「我今日より母の眼病平癒を祈らん為、河内瀧谷山へ参籠すべし。若信心至らず母の目に霊験の顕れずんば死すとも再び家には帰るまじき覚悟なり。家事向を妻と弟に任すべければ好きに計いて」と暇を告て立出でぬ。

 親は老体のことなれば駕籠にて労わり当山へ母子の参籠せしは、其年十一月の中旬なりけり。

 斯くて観世音菩薩の御教の如く信心堅固に礼拝念誦して怠たることなく、加持井の法水を汲取ては、飲ませもし目を洗いもし、伊兵衛は又凍る計の瀧に其身を打たせ、寝食をも忘れ一生懸命に祈願を凝し、今一度母の眼を清くし玉え、我身は此儘朽果るとも恨むまじと一心籠めて祈り居たりけるが、七日目の朝より両眼痛みて脂(やに)の出ること一方ならざれば、これぞ本尊の利益ならんと尚も信心を励ましつゝありしが、其四十九日目に当る日自宅より女房急病発れり直ぐ帰るべしとの飛脚来たれり。母子の驚愕大方ならず。

 母親は「嫁女の大病とあるからは、急ぎ帰りて大切に介抱せよ」と言いけるを伊兵衛は聞入るゝ様もなく、「否な否な嫁の代りはあれど母は二人となし、殊に自分家出立の時母人の目に快復の霊験を蒙らざる間は決して帰宅すまいと誓いたる言葉を反古にはなるまじ」と子言うを、母親は押返し、「それは其方の思い違いというもの、我身は明日をも知れぬ老の身、死したりとも惜むべき身にもあらず、嫁女はまだ末永き大切の身なり、さるに我老の身に係わりて若も取返しのならぬようのことありては却て我が後生の障りともなるべければ、早く帰りて介抱せよ」とさまざまに説きすゝむれど伊兵衛は尚聞入るゝ様もなく、云いけるは、「今帰りては家族親戚に誓いたる言葉にも反き、不動明王の思い給はんようもあさましく、妻の為に母の病を疎かにしたりならんと言わるゝも口惜しければ」と言い言い其夜は眠りに就きたりけり。

 然るに其夜夢ともなく、現ともなく不動明王の顕われ玉いて微妙の御声に、「汝が母の眼病は宿障多く平癒なりがたけれども汝の孝心深きを愛でゝ、我代って其苦を受け母の眼光快復を得さすべし。又汝が妻の病は旦夕に逼りたる重病なれど、こゝの加持井の水を以て薬用として信心怠ることなくば遂に病を除くことを得ん。ゆめ疑いなせぞ」と告げ給うかと思えば夢は忽ち覚めにけり。

 扨も難有や勿体なや、と側の母を呼び起こして夢の次第を物語りけるに、母も亦同様の霊夢を見たれば、今御身を呼起さんと思いし所なりきと云う。かゝるからには不日御利益を得させ玉うか何とも有がたき次第にこそと、伊兵衛は加持井の水を暁待兼汲来り之れを迎の使に持たせ、委細は書面にあらば妻の薬用の水にせよと云いかえし、遂に自身には帰宅せざりける。

 かくて明くる朝御堂へ上りたる初女、打伏し拝みて頭を抬ぐれば、幽に宝龕{(みずし)仏像を納める厨子}の見得るに、初女は「これ伊兵衛や伊兵衛目が見ゆる」、と聞く伊兵衛、「エッ」とばかり母の側に寄かゝり、「母じゃ人、御眼が見えますか」と見れば、細やかに開げて薄雲の中より瞳は現われにければ、親子はあまりの嬉しさに言葉だもなく、あら有がたやと感涙に咽び本尊明王の宝前近く拝み伏して勇み悦び様、傍えの人も感歎せざるはなかりき。

 其後日を経てさしもの難病も平癒し目出度帰国するを得、又妻の病気も恙がなく本復したりければ、一家悉く明王の大利益の神変不思議なるを感佩(かんばい)し家内一同大信者となりて睦まじく信心怠たりなしと。是れ御告げの如く全く伊兵衛が孝心最と深きが致す処なるべきのみ。

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