日本三不動の一 ロゴ 瀧谷不動尊

祖母の片眼盲い孫の両眼を得たる事

祖母の片眼盲い孫の両眼を得たる事

 摂州住吉郡安立町に名を琴女(ことじょ)と云える女あり。

 明治五年、女の児を産しが胎毒劇しく眼を煩いて遂には盲目となりぬ。されば祖父祖母始の嘆きは初孫のこととて別きて甚だしく余所の見る目も痛わしく、好しという医薬は用い尽したれど少しの効験だもなきものから、今は頼み少く見えたるにぞ、此上は瀧谷不動明王の大悲の袖に縋るより他なしと思い定め同年七月当山へ参籠したり。

 幼児の名「かね」なるを、今日より不動尊の不の字を戴き「ふみ」と改名させける。

 さて、琴女は乳母に児を抱かせ、朝な夕な不動明王の宝前に合掌礼拝して、頻りに球護を乞い奉りしかど、五十日余りがほどは何の御利益も顕われず。益々頼みなく見えたりければ、今は早我々親子は神仏にも見離されしか、此上は如何に祈願を凝らすとも、其甲斐なきか。アゝ是非もなや、と歎き悲しみつつ悄々乳母諸共家に帰らんとこそしたりけれ。

 斯る処へ祖母及び夫の尋ね来り、斯と聞くよりさも驚きしさまにて、僅が間祈誓して御利益の現われぬを恨み奉り空しく家に帰らんとは何事ぞや。既に医薬の効なき眼病なれば唯此不動明王の大悲に縋り奉るより他に道なきのみ、まだ何の験だもなきは、母子の罪障深き故ならん。是より尚信心怠らず、参籠して一心不乱に願い参らせむには何どか験のなかるべきやと、琴女の心を励ましたれば実に道理と気を取なおし、一層信心を凝らしつつ、折々住職の法話を聞き罪障を懺悔すること更に三十日余り経たれど尚聊かの験だもなければ琴女思うよう、兎ても角ても治るまじき眼病ならん。さるを執念に縋り奉らば却て勿体なかるべしと諦念(たいねん)し、又もや帰宅せんとしつるを、祖母は容易く聞入れず。

 「しか思う心ぞ信心の足らぬしるしなれ。今に至るまで験なく孫の眼病平癒せざるは信心の足らぬしるしなれ、今に至るまで験なく孫の眼病平癒せざるは、我等親子の信心懺悔尚至らざる処あればならん。孫文はまだ幼児、行末長き身の上なるに物の黒白も分きがたき障害者のまま置かんこと実に不憫とも憐れとも言葉に尽すべきにあらず。暗から出でて暗にある身なれば頑是なき心に人は斯るものなりと思い居らむも、成人の後麗わしき花をも、清き月をも見ること能わず、生甲斐もなき身を知らば其時親を恨みやせん。我は行末短かき身の仮令如何様にならんも厭うべきことにはあらず。今暫く信心せよ」とて琴女の心を励ましおき、深く心に覚悟する処やありけん。

 翌日明王の宝前に平伏して、何卒孫女の目を助け給え、孫女の目だに助からば我目は両眼朽ち果るとも老の身のなどか厭いはしつらん、本尊大悲の御力にて孫女の眼に験の見えるまで、得こそ当山を退き候まじと、六十路を越えたる老の身の暁知れぬ身を以て又加持井の水に垢離(こり)を取りては一心に祈願を凝らすと見て、琴女もこれに励まされ、ともども一心不乱に祈請を凝したりければ、夫れより三七日余の後罪障や尽きけん、信心や徹しけん。祖母の片眼に霞を帯びて物を見る眼のおぼろおぼろになりにけるが、それと同時に孫文の眼は幾分かの光りを覚え、あちこち四方を見る様なればあな有難や、勿体なや、無理の願いを納れ給いしかと、宛ながら狂気の如く、益々信心怠りなかりしかば其甲斐遂に空しからず。

 祖母の片眼は全く明を失いて、孫娘の両眼星の如く鮮やかに愛らしく開きたれば、祖母及び琴女の悦び譬えんに物もなく、歓び勇みて帰りしを、人々はさても不思議の霊験かなと感じ思はぬはなかりけり。

 これぞ同年十二月のことなりける。

―「瀧谷不動尊霊験記」より転載―

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