私共が、この瀧谷山へお詣りさせていただくようになりましたのは、去る昭和二十九年の春だったかと思います。主人が眼病にかかり、失明寸前の出来事があって約半年位すぎていた頃だったと思います。医師に診てもらいながら運が悪いとでもいうのでしょうか、原因がはっきりわからぬまま悪くなってしまったのです。
主人は小さい頃から近視で、体も丈夫な方ではありませんでした。快復の見込があるのやら、いつ治る事ができるのやら、働く事が出来なくなってからの毎日は不安で絶望のような気持でした。二十才代の若さで、働き盛りの最中に、やりだした商売がようやく大きくできる見通しにはいった矢先に、二人の幼児(男子)を抱えて、収入はなくなるし、商売をしていたので健康保険もないし、我家にとって悲しい困った状態になってしまったのです。すでに私は子供を母に頼んで働きに出ておりました。その折大阪に住む私の叔母が、眼病には特に御守護・御利益をお授け下さる瀧谷の不動さんを教えてくれたのです。
それから今日まで思い出せばもう十七年になりますかしら、家では毎日のこと、お寺には毎月毎月お詣りを続けさせて頂いておりますが、欠かした事はございません。私共に出来る事は、唯それだけの事ではありますが、迎える年の無事を祈り、過ぎた月を感謝して、御礼申し上げにまいっております。
当時丸々三年間も働けなかった主人もお陰様で、おいおいよくなり、現在では主人と私が手狭いながら一軒づつ店を授かり、商売に専念いたしております。息子は二人ともこれもベビーブームの時代の子供ですが、お陰様で進学も順調に出来まして、来年春大学を卒業できるところまでこぎつけました。長男は大学院へ、二男は一流会社に就職が決り、それぞれ目的ができました。このながかった月日に数えきれない、大なり小なりの出来事が、何かしら都合よく、無事に順調に運んでこられた事を思い出すと、ほんとうに神のお力、御慈悲を頂けたのだと有難さをしみじみ感じます。勿体私共は、努力努力、又努力と頑張りの毎日でございました。
勿体ない事ですが、私は今も自分の側に、お不動様がついていて下さると思っております。何時でも、何所でも困った事が起きた時、又それが喜びに変った時、その場その場で心の中で、お頼みしたり、お礼をいったりしております。心強くなって頑張れと自分にいいきかせる事ができるのです。いうまでもなくまだまだ信心は浅く、頼りない者ではありますが、私にできるお詣りの事だけでも、永く永く続けさせて頂くつもりです。しかし段々と欲深くなって参りますが、これからは商売を無事にやめて、息子達に良いお嫁さんを授けてもらい、平和な家庭が続けられる時代がくる事を、確信をもってお詣りさせて頂きます。
いままで私共の過去の事を簡単に述べて来ましたが、さて此の度、私がこのような拙い文章にても、この七月に起きた事実を書かせて頂かねばならぬ機会となりましたのは、又ここに大きな結構な御利益を頂いたからなのです。
二男が来年には、大学卒業とあって、修学旅行のつもりだったのでしょうか、友達のBさん、Cさんと三人で夏休にはいるなり七月十五日から二週間の予定で自分の自動車で北海道知床岬へと向かったのです。車なんかで随分遠いところへ、若いから無茶な事をするのではないかと親の方は心配ばかりしておりましたが、現在は大勢の皆さん方も行かれる事だし、楽しみにして自分達の小遣でゆく事でもあり、さいごの夏休だからこのことについては何も申しませんでした。車は今年三月自分が親戚から譲ってもらった中古車でしたが、五年間事故を起こした事もない車ですし、四月には、この瀧谷山で御祈祷をして頂き、御守も頂いて居りました。
先に申しました通り来年の就職も決っている事で、この夏休みはどんなにか楽しい思い出にしたかった事でしょう。又それが一生忘れられぬ思い出となり、お不動様のお陰を知った事と思います。
Bさんは運転のベテラン、Cさんは運転できず、うちの息子は去年の夏休に免許を取ったのですが、安全運転のほうで、教習所でも教官がほめて下さったそうです。だからBさんと息子が交替で運転していたのです。先に目的地知床を済ませて、帰途もう少し足を延ばすつもりで出かけた途中の出来事になります。今年は北海道へ渡った頃からずっと天気の具合が悪く、寒かったそうで、条件は良くなかったようです。
昼間の出来事だったのですが、どんな道だったのか、何せ砂利の多い道とかで、危険な道だと感じて、息子が運転していたのを、Bさんが替ってくれたそうです。自分も助手席で危ない予感がしたので頭の上の方にある握れる場所を持ったそうです。そして間もなく曲り角であっという間に二回転して下の田圃へ落ちてしまったのです。後ろの席にいたCさんは昼寝をしていて、一回転の時はまだ気がつかず、二回転目に目が醒めたというあとの話。細い木が支えになっていたとも申しておりましたが、お巡りさんが来られて計られたら五メートル下へ落ちていたそうです。三人共無事に車からでてきた時は、真青になって、暫く口がきけなかったそうです。Cさんがおでこを軽く打った位で済みました。Bさんはその時の事を、「あっ」と思った瞬間、前に道が無かったという事です。このように三人共無事だったので、車は駄目になっても、残る予定の行動をすませて帰って参りました。この事を報らせると家で心配すると思って一度も便りをして来ませんでした。
そして帰宅予定日の一日前に戻ってきました。玄関でこの事を聞かされたのですが、とても本当にできず疑ってばかりおりました。事故の場所は今までにも何度も車が落ちた場所だそうで、前の人は二ヶ月の重傷だったと田圃の持主の人がいっておられたそうです。何しろ不便な場所で、車の修理屋さんまで五十キロほど行かねばならぬところだったそうです。幸にして、あとから来られた車に御世話になって、連絡ができ、車を引き上げ、引きとってもらったそうですが、車は大破ではなかったものの、窓ガラスが細々に割れて飛び散り、とても大阪まで持って帰る訳には行かなかったそうです。男の子はなかなか詳しく話しませんので、こちらが色々と心配して根掘り葉掘りして聞いておりましたが、車の御守と泥だらけの車ナンバーを見せられた時、始めて本当だったのだなあと、ぞっとしました。その場でお不動様に手を合せました。
時間が経つにつれて、これが悪く大事になっていたら今頃は、と色々余計な想像が浮んで、思えば思うほど恐ろしい限りでした。遠いところの出来事が、しかも無事に済んでいるので、今でも時々そのように思います。やっと心が落着いた現在、自動車を失ったうちの息子よりも、Bさんの気持の方がどんなにつらく責任を感じておられるだろうと気の毒に思っております。又廃車となって遠い地で引き取られていった車を思う時、同じ動き働く生物と思えば犠牲になってくれた車にも御礼をいいたい気持になり、お不動様に祈りました。まだまだこれには付け加えたい事柄がありますが、あら筋を述べました。このあらたかなる御守護を頂いた喜びを皆様に知っていただける事こそ、お不動様への私からの心からの御礼だと思っております。
この文章は、昭和四十六年当時のものですが、そのままここに掲載させていただきました。 編集者
―昭和五十四年 「瀧谷山報」再刊四号より転載―