日本三不動の一 ロゴ 瀧谷不動尊

九年以前の眼病発心即日霊応の事

九年以前の眼病発心即日霊応の事

 大阪市西区阿波座上道一丁目の片桐市次郎(かたぎりいちじろう)と云者(いうもの)は、明治十二年三十八歳の時、重き眼病を煩いて遂に右の眼を失いぬ。

 されど商業に事を欠くほどにもあらざれば、別に心にも懸けず月日を送り居りしが、同じ廿年の春に至り命と頼む左の眼をも煩いて、いまは全盲同様の身となり、名医良薬残る方なく服用し療養に怠りなかりしが、少しだも効能なければ暗の中に在りて生き永らえんこと甚だ残念なりと、頼む木陰に雨の漏る心地して鬱々(うつうつ)と暮し居(おり)けるほどに、或日店の商品を買わんとて入り来たる人の市次郎の眼を煩い居るを見て「家主(しゅじん)には眼病に悩みたまうと見ゆ、総て病には医薬第一なれど、眼病には別きて河内国瀧谷山不動明王の御利益こそ世にも稀(まれ)なり、如何なる難病にても信心を抽んでゝ祈らんには、平癒の利益疑いなし」と告げ知らせぬ。

 之を聞く市次郎は言うに及ばず妻子一同大悦びに喜びて、其新情(そのしんせつ)を深く謝し、取敢(とりあ)えず翌日妻に手を曳かれて当山へ参詣せられたり。

 斯(かく)て彼(か)の九年巳前(いぜん)に盲目となりし右の目のことは願わで、近頃悩む左の片眼を今一度平癒せしめ給えと、夫婦諸共に精神(こころ)を淨めて一心不乱に念願を籠めたりける。こと最と慇懇(ねんごろ)にして後加持水にて眼を洗い、夫(それ)より鰌(どじょう)を放生(はな)し其日直(そのひすぐ)に帰り路(じ)に向えり。

 すがら車上にうつうつと夢の如くに、不動明王のありありと拝まれてあら有がたやと、思えば夢は覚めつ。あたり見回せば、九年前既に失いたる右の目の微(かすか)に見ゆるものから、後を振り返り見、妻の乗れる車をも呼び留(とど)めあまりの嬉しさに妻にかくと告げつゝ、天にも登る心地して悦び勇み又車を急がしける。

 さるほどに早く家に帰り妻に目を検(けん)せしむるに、黒白のかゝりものの中より少し瞳の見ゆとて、家内一同は其霊験の神速(すみやか)なるに驚き且(か)つ悦びのほど言葉にも尽くしがたくぞ見えけり。

 かくて日夜自宅にて信心怠りなかりしが、捗々敷効験(はかばかしくこうけん)の現われざるものから、更に同年六月より当山へ参籠せられたり。依(より)て拙僧(せっそう)は礼拝法則(らいはいほっそく)を授けぬ。夫(それ)より衆と諸共に信心を励ましありしが、当年煩(ことしわずら)いたる左の目は全く明(めい)を失いたれど、己(すで)に捨てたる右の目は遂々(おいおい)に明らかになりゆくを悦び、不退に法則を守り只管誦呪礼拝(ただひたすらじゅしゅらいはい)に余念なかりし。

 されば終(つい)に宿業も尽きけん。何時(いつ)となく左の目も光りを生じ、其嬉しさ信心肝に銘ず。七ヶ月目にして両眼拭(ぬぐ)うが如く明活(あきらか)の目となり得て、喜色満面(よろこびおもてにあらわれ)十二月中旬目出度(めでたく)下山せられたり。

―「瀧谷不動尊霊験記」より転載―

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