明治二十三年四月のことなるが、大阪市西区南堀江三丁目 横田与左衛門(32才)又同町 仁木兵助の長女たね(20才)の両人はいかがしけん同町にして同時に而も同様なる精神病に罹りたり。
されば何れも、夫々医薬を尽くしたれど捗々しく快復もせざるものから、各家内の人々は心配限りなく狼狽騒ぐ体を、同町に住める高砂久兵衛という人之を見聞し、いと気の毒に思い精神不安定と雖も各々痛く暴れ回るというにもあらざれば、河内瀧谷山にいそぎ参籠せられよ、と親切に勧められ両家とも其勧告に応じ右高砂氏の先導に、横田与左衛門には妻女、仁木種子には母親の付添いて参籠せられたり。
然れども患者は両人とも精神の狂い居れば、初めのほどは本尊礼拝の念慮なきのみならず。本堂へ登るをも厭い、強て連れ登れば衆多の参籠者に対し暴害をなし、或は帰宅せんと走り出る杯に困難なるは精神病者の常なるが、兎に角本尊礼拝するように教え諭し或は瀧にかゝらせ、看護の人々は本人等に代り一心に信心を籠め、祈念すること凡そ一週間にして少々病の怠たり、日夜六度の礼拝時中両三度づゝ衆参と共に、本尊前に平伏し又合掌するようになり、夫より宜否は時々ありたれど次第々々に快方に赴き、三十日余りにして両人共宛がら生まれ代りたる如く正気の人とはなりぬ。
如何にも不思議なるは、両人とも昨日までの病気は夢に殊ならぬ状況となりたるも同時なるとは、これより一週間を経るも異状なきものから、何れも喜悦の中に下山せらる。
其後再発もせでいと健全に暮らし在る由時礼参しての物語なり。
―「瀧谷不動尊霊験記」より転載―