大阪市西区江戸堀下通二丁目 根津清助の長女政子は明治十八年の頃より眼病に罹りしが、家には巨万の富を重ねつ、殊に長女のことなれば金銭にも厭いなく、市中の名医に就きて種々に治療を施したれど何れにても手術薬用の験なく、数年間を経るに従い殆んど盲目同様の身となりしかば、本人は言うに及ばず、両親始め親戚の苦慮心痛は言葉にも尽されず。
一同天に歎き地に悲しむと雖どもその甲斐もなく、已に医薬に見放されたるからは如何とも致し方なからんか。さり迚其儘捨置くべきにはあらず、唯いかがはせんと苦慮に打ち沈みつゝ日を送りてありけるが、或日河内国丹北郡三宅村(現・松原市)の田地守来たり、政子の眼病兎角癒えず今猶困却の趣きをきゝ、哀境の同情を表し言えるよう。
「我国瀧谷山の不動明王は霊験新たにして宛も響の物に応ずるが如く、如何なる心願にても正道なれば一心に信仰せんには其奇瑞なしと言うことなし。殊更眼病人は多く、参籠して御利益を蒙むる者十が九なり。されば令嬢の御眼病も、此不動明王を信仰し給わば必ずや御快方に赴くならん、その外には詮術あるまじ」と注告しける。
然るに当家は代々真宗の篤信者なれば、他の宗門の不動明王を信仰するは崇祖の訓を乖くに似たりとて、親族等の中に兎や角異議を唱うるもありたれど、今は取着島もなき愛子の病気には代え難しと、主人は心を定めて当山へ政子同道参詣せられたるは明治廿四年の春、政子の十歳の時なりし。
夫れより自宅にて日夜信心を凝らし其后毎月廿八日には必ず参詣し、又護摩供を怠たらず献ぜられつつありし。爾来薄紙を剥が如く少しづつ快方に赴き、さしもの難病も翌年の春には大方平癒したりとて、誠に悦びつつ倍々信心せられぬるが、茲に又不思議なる事こそあれ。
政子の父清助なるが明治廿五年五月頃より肺病に罹りければ、医薬に手を尽して養生怠りなく、当山へは代参の人を登山せしめ特別護摩供を捧げ、発病後七日目毎に同様なりし事両三ヶ月に及ぶ。当時拙僧〔慈恭〕思えらく、政子の眼病につき毎月代る代る付添うて参詣せらるゝも、家人に染々交際は未だ為さず。されども数月の間怠りなく代参特別護摩供養せらるゝ等実に篤信の人かな。当方に於て祈願は凝し居ると雖も未だ快方にも至らず、殊に長病に悩み居らるゝ事なれば、一度見舞に行かばや、と思い立ちしは八月の上旬なりし。されど障る事のありて斯念を果たさず、その月も終え、催いに催うて漸く九月の廿六日を卜し后夜の修法を済まし出阪し、午前十時頃先ず同家に赴きぬ。
玄関にて来意を通ずれば、斯と聞く家内の人出で来たり奥の間へ案内せらる。其間を見れば床の間には不動明王の尊影を安置し、荘厳美麗に供養向の行届きたるは宛然一小堂の如く思われぬ。かくて程なく、家内及び実弟等交るがわる初対面に出て、挨拶の礼儀濃やかに、何れも喜色面に現われて見ゆ。さては主人の病気は快方に赴きしか芽出度き事よと心の中に思いつゝ、病状を尋ねけるに人々の答えは案外にも、いよいよ大病に迫りて医士も手を放したれば、臨終も早や旦夕にあらんに、されば最悲境の中なるに、拙僧に対する持遇は非常に喜びありて見ゆ。如何にも解し難きことよと異みつつも、兎にかく病床に於て加持祈祷を請いのままに本人の枕辺に趣むけば、床の間には不動明王の大幅を掛けて清浄に、香花灯明等を供養しあり。該尊影を凝視すれば弘法大師の真筆なり。此に於て修法を為し終わり親しく病体を訪うに、聊か苦痛はなく安楽の様子なれども言葉を交すことも早や難ければ、如何にも家人の言の如く全快は覚束なく見ゆるものから、更に臨終正念往生の大事を授け別を告ぐれば、最も笑ましげに別礼の体こそ見ゆれ。
夫より元の浄室へ復座し丁寧なる施斉を請る間も、家内や弟の卯之助・捨造・亀之助の諸氏交るかわる侍座して一人の言えらく。「実に今日貴僧の御來臨は何とも有難き限りにて候と申は清助事昨日より虫の息なる中に貴僧の御来臨ありし筈何れも御座所を設けしや、と問うこと再度に及べども、我々は夢にだも思わぬこととて、何気なく実の如く未だ御来臨なされずと答えけるに、病人は最と不興気に見えけれども、病夢の譫言にもやあらんと心にもとめず捨置きけるに、此事再三に及びければ全く譫言にもあらで、貴僧のお越を待兼ねるものゝごとけるを、今は捨置くべきにあらず、と卒爾ながら今朝店人を以て御來錫を願いに遣わせし次第。さるを夫れと御存もなく、かけ違いにてお越し下されしは如何計り有がたき仕合せ。只不思議なるは清助如何にして貴僧のお越有るを予知せしかと思い回せば、これぞ信心の不動明王に貫徹し、臨終のいまわを御引導に預かることかと、我等一同は其霊験の弥々新たなるを感佩し、尚本人の本懐の通じたるを悦び合えりし事にて候」と聞く拙僧が先の待遇の厚き等の不審も此に晴れぬ。是れ不動経の中の、是大明王無其所居但住衆生心想之中とある御文の想われて有りがたきなり、等の事を説示し、夫れよりもはや祈帰山せばやと別辞を告けるに、弟其の言わるゝよう「清助事貴僧の御來錫下されしを殊の外に悦びて、此上ながら是非に今宵は泊錫あらんことを切に希望すれば、何卒此儀を容れられたし」と懇に請わるゝものから遂に其意に任せ滞錫致しぬ。
午后二時頃より拙僧は近傍なる高野寺へ赴き、同五時頃帰り病状を問うに、甚だ危篤なりと聞くや、清助主の枕辺に就き秘法を修し加持水を与えたる時其日午后五時半、唱名念仏の中に眠るが如く安楽に、行年三十九歳を一期とし目出度く正念往生せられき。
茲に家内一同親族及び重なる家眷に至る静然打集い永き訣れの悲歎遣る方なき状況は実に道理とこそ見えにける。しばしば哭声もやまず、頭もたぐるものもなかりし。稍暫時ありて家内始め一同は拙僧を顧みて言わるゝ様、主人は長の煩いなりしにも不抱、初めての来臨なるに斯く臨終の際に貴僧の来会せ玉い、而も本人のそれを予て知りたるのみか、逗錫を願いのまゝに末期の御修法にまであずかりたる等、是れ深き因縁のあるべけれ、偏に不動明王の大慈大悲なる御引導にて安養浄土に托生せんこと疑いなければ、又此上の有難き事はありてこそ更に喜びの涙に咽びあえりてありけり。維明治二十五年九月二十六日の事なりし。
拙僧はそれより追善菩提を吊らい夜半の頃寝に就きぬ。葬送は翌々日二十八日とせり。同日は恰も本尊不動明王の縁日なるを以て、拙僧は二十七日に帰山し会葬には代僧として矢野恭海を遣わし、当山にては回向をなせり。
其后亡清助主の遺志なりとて、弟諸氏を始め別家の金邨孫助等は同志を集めて本尊の信者を結合し明王講と称し、一族及び家眷の人々に至る大信者となり、毎月二十八日には寒天酷熱を論せず、又雨の朝雪の夕をも問わず、必ず当山へ参詣し護摩を供養し、帰宅の上は一族家眷等集まりて一同本尊礼拝法則を如法に勤め信心怠りなきぞゆかしき。
されば一門ますます富栄え福利自ら来たる。前顕不思議の廉少なからず。尚も毎度の利益を蒙むられしは、是れ偏に信心堅固の果報なるのみ。目出度しめでたし。