大和の国北葛城郡王子村石山音吉と云える人、眼病平癒を祈らんと明治二十三年十二月当山へ参籠せり。
礼拝法則形の如く授与を終えて、日夜行願を励ます程にその功や顕われけん。三十日余りにして七八分通りも快癒しつ。是偏に本尊明王の御蔭と悦び勇みてありしが、或日国元より雪の道を遠しとせずその妻の見舞に来たりたれば、音吉大いに悦び「我は本尊の御利益の早くも眼病は七八分快方に為りたり、御身も共々礼拝せよ。」とて更深くるまで宝前に誦呪してありけるが、山風の身に染みじみと堪えかね、他の参籠者も皆籠堂に下りて寝るものから、やがて音吉夫婦も本堂を退き各伏床に入りぬ。
然るに其翌朝周章狼狽の体にて、音吉は拙僧の本堂より行法を済まし下る間遅しと居間に来たり、「扨は大変な事を致しました。何卒々々貴僧の修法力を以て本尊明王へ御詫を成し下され、どうぞどうぞ。」と事の訳をも言わず、只泣伏して頼みきけぬ。依て拙僧は「いかゞせられしや」とその由を問うに音吉はおづおづと頭を上げ、「誠に申も恥ずかしながら、昨日愚妻の見舞に来て呉れ我眼病も御蔭にて十が七八は治りたるを共に悦びたるに、今朝は少しも見えませぬ、何卒お助け下され。其訳は、昨夜初夜の礼拝を終わりて籠堂へ下りしが、目今参籠者の少なく殊に寒さきびしくかたがた夫婦のことなればとて、男女の区別正しき寺法をやぶり、遂に同じ伏床に入り誠に凡夫の浅間しさ、勿体なくも霊場を穢しませり。其罰や忽ちにして、旧に増したる盲目に為りました。後悔すれど甲斐ぞなき事ながら自今盲目の身となり果てなば此身の難義は申までもなく、親や妻子の歎きいか斗りぞ噫情(あゝなさけ)なや。昨日までの御利益は水の泡と至せしも心から、今は此心を改めて房事は三ケ事間禁慎致すほどに、哀れ今一度冥助あらんおとをどおぞどおぞ。」と其事実を包み隠さず発露懺悔に、男の声を揚て泣くも実に道理と見えにけり。
拙僧は之を聞き終わりて告げて曰く、「やむなむやむなむ、夫は心願ある身にも不抱斯霊地を穢せし御忿怒ならめ、当本尊は誠に罰利ともに赫灼なり。乍去今は出来たる後何と悔めど致し方もなし。是より壇を聞き特別修法を営み参らする程に、其身も法令の如く懺悔清浄に一層信心堅固肝要ぞ、其意行によりて亦大悲の利益も顕るべし。」と時に本人は悄然として退りぬ。夫れより拙僧は七座の護摩供を終業し冥被祈願を為し遣わせり。
其后本人は日夜寒天に身を切る計りなる加持井の水に水行するのみならず。尚剣の如き瀧に身を清め、昼夜六度礼拝勤行の余暇にも宝前を退かず幾回となく法則を誦呪し、其始終わりには心猿意馬に意得違いせし旨ども明白に発露懺悔する其様、宛善精神異状者の如く一心不乱に見えける。
されば本堂の内外に拝する人々皆耳を澄して之を見聞し、不知不識共々に懺悔発心せざるものなかりき。
かくて日を経るに従い、少し眼光を回復したれば悦びのほどは言わん方もなく、益々信心堅固なりしかど、或は明となり又は暗となりつゝ、一ヶ年ばかりにして半ば快復せしも、兎角全快に至らぬものから,一旦罰を蒙りし眼なれば此上の利益は得がたきかいかゞにや、と少し迷いの心を生じ拙僧の許に来たり間いぬ。依て拙僧は決定諦信の肝要なる旨を教誡しぬ。
されば復た疑念なく更に一心一向に信心を凝らせしこと一ヶ年、前后二ヶ年の間戸主にして家事に要用なる身なるにも抱わらず、一回も帰宅せず参籠してありしは、実に深信ならずや。しかれば太甚難治の眼疾なりしも、越えて明治二十六年の春に至り八分通り平癒せしかば、誠に悦び参籠してより三ヶ年目にして始て一度宅へ帰り、其翌日直に登山し相換らず礼拝法則を如法に勤めてあり。此年は又或は高野山へ参詣し或は四国巡拝杯して、遂に両眼とも晴眼となり得て、目出度帰宅せられたるは満三ヶ年即ち二十六年の十二月なりき。
其後一層家業をも励み最と仕合せよく盛なりと。凡そ何事によらず斯く強根にてこそ本望成就するめり。夫れ精進羅蜜の教旨服用すべきなり。
今猶月参怠りなく、家内も陸びやかに絶えず浄信を運ぶ其趣き、返すがえすも深信の人と云うべし。