「何事の おはしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼるゝ」
西行法師が伊勢神宮の内宮で詠んだといわれる歌です。
お寺や神社にお参りしたときに、「何故だかわからないけれど急に涙がぽろぽろと出てきて、何かすごくありがたい気持ちになった」とか、「巫女さんがお神楽を舞っている様子を見ていたら、本当に神さまが実在していることに気づかされて、感動して涙があふれてきた」といった経験がある方もいらっしゃると思います。
神仏にお参りをしていて、「まもられているなぁ」「ありがたいなぁ」という気持ちが湧いてきて、「何か大きな存在に守られている」と感じた瞬間に止め処なく涙があふれ出ることがあります。
西行さんも「お伊勢さんの内宮には天照大御神さまが祀られている」ということは当然ご存じだったはずですが、「何事のおはしますをば知らねども(どのような存在がいらっしゃるのかは分からないけれど)」と詠まれたのには、そのように目には見えないけれども何か大きな尊い存在を心に感じたからなのでしょう。そして「かたじけなさに涙こぼるる(ありがたくて、尊くて、感謝せずにはいられないような気持ちになって涙があふれた)」のだと思います。
このように神仏のご加護をありがたく感じて涙があふれることを「随喜の涙を流す」といいますが、スポーツ観戦や芸術鑑賞など全身全霊で何かを頑張っている人の姿を見て、心が震えるほど感動したときに涙が出る感覚と似ています。
「随喜」という言葉はお経の中にもたくさん説かれていますが、「他人が善い行いをしたときに、それを心から称賛し素直に喜ぶ」ということです。ラグビー・ワールドカップで感動を与えてくれた日本代表選手たちに「ありがとーーー‼」と感謝の気持ちを伝えて称賛したことも「随喜」です。また、例えば電車やバスの車内で高齢者に座席をゆずる高校生を見たときに「善いことしたなぁ」と心から喜ぶのも「随喜」です。
「随喜」すると「善い行いをした人と同じ、またはそれ以上の徳を積むことができる」と仏典に説かれています。先ほどの高校生の善行を車内の全員が随喜すれば、一人の善行のおかげで車内の全員が同じだけ徳を積むことができるのですから、そんな世の中になると良いですよね。 誰かが善い行いをしたときには「それくらいのことは誰でもできる」などと思わず、素直な心で「善いことだ。すばらしいね!」と随喜したほうが、きっとお得(お徳)ですよ。
執筆者 千葉県南房総市
真言宗智山派 勝蔵寺住職 田口秀明