蓮の花が咲く時期となりました。
先日、家から少し離れた所にある「大賀ハス」の蓮池へ行ってみると、数百本も並ぶ蕾みの中に、大きな蓮の花が咲きはじめていました。緑一面の葉のすき間から鮮やかなピンク色の花がいくつか顔を出し、日の光に照らされて輝いて見えました。7月中旬には見ごろを迎えるとのことです。
古代蓮と呼ばれる蓮の中でも特に人気があり、代表的な品種の「大賀ハス」ですが、もとはたった1粒の種から全国各地に広まったといわれています。
昭和26年の春、大賀一郎氏によって千葉市内の遺跡の発掘調査が行われ、地下6メートルにあった泥の層から3粒の蓮の実が発見されました。大賀博士のもとで発芽に成功しますが、その後2つは枯れてしまい、残る1株の苗が大切に育てられました。翌年の7月1日に最初の蕾みをつけ、7月18日に大輪の花を咲かせたのだそうです。
蓮の実が出土した泥の層は2000年以上前の地層であることがわかり、博士の名前にちなんで「大賀ハス」と名付けられました。博士の情熱と愛情によって2000年の眠りから醒めたこの蓮は、平和と友好の象徴として全国各地から世界各地へと広まり、多くの人々に親しまれています。
蓮は泥に染まらず美しい花を咲かせることから、仏さまの花として大切にされます。泥は私たちの煩悩あるいは俗世間の汚れに喩えられ、泥に染まらない花は仏さまの教えや、清らかな功徳、さとりの境地などをあらわす、と考えられています。
ただ、私たちはみな、少なからず心の中にドロドロをかかえているものでしょう。そのドロドロに染まらず清らかな花を咲かせることなどできるのでしょうか…と思ってしまいますね。
蓮は泥の中から必要な栄養だけを取り込んで、清らかな花を咲かせます。しかしよく考えてみれば、泥の中でなければ大きく育つことはできないし、美しい花を咲かせることもできません。きれいな水だけでは駄目なのです。むしろ「泥の中にあってこそ成長するのだ」と思って我が心を見れば、何か良いヒントを得ることができるかもしれません。
「煩悩即菩提」という言葉は、煩悩が菩提(さとり)を妨げるものでありながら、煩悩がなければ菩提もなく、煩悩と菩提は表裏一体であるという考え方です。言葉で説明すると難しいのですが、先ほどの「泥」と「蓮の花」の関係で考えていただくと良いでしょう。泥があるからこそ美しい蓮の花が咲き、煩悩があるからこそ清らかな菩提の心に到るのです。
「心の中にドロドロが積もっているのは、人として生きる上で当然のこと」と受け入れ、そのドロドロをかき分けて心の中の菩提の種(仏性)を見つけ出し、大賀博士のような情熱と愛情をもって1株の苗を大切に育てていきましょう。
執筆者 千葉県南房総市
真言宗智山派 勝蔵寺住職 田口秀明