仏教の仏さまのうち、完全な覚りの境地に到った仏さまを「如来」と呼びます。
覚りの境地に到るための修行として、私たち衆生を救い、願いを叶えてくださる存在が「菩薩」です。「菩提薩埵」の略で、覚りの境地(菩提)を求めて修行する人(衆生=薩埵)という意味になります。そうした意味では、菩提を求める心を持っている人、人々を助けるはたらきをする人たちは、みな菩薩であるといえるでしょう。
延暦二十三年(804年)、弘法大師さまは真言密教の教えを学ぶため、三十一歳のときに唐の国へ渡られました。長安の都に青龍寺というお寺があり、そこで恵果阿闍梨から真言密教の法を授かりました。その際、恵果阿闍梨は弘法大師のことをさして「この沙門は凡徒にあらず、三地の菩薩なり」と仰せになったと伝えられています(『御遺告』)。瀧谷不動尊では朝の護摩法要の際に「瀧谷山不動明王和讃」をお唱えしますが、その一節に「爰に安置の明王は 三地薩埵の御作にて 誓いは無量のその中に 眼病悉除の異霊あり」という句があります。「三地薩埵」と書いて「こうぼうだいし」と読むのは、このことを表しています。
菩薩には修行の階位が五十二段階もあって、悩める衆生を救う利他の修行を積み重ねることにより、如来の覚りの境地に近づいていきます。「三地の菩薩なり」というのは、菩薩の修行段階の(十地のうちの第三地、五十二階位のうちでは上から数えて十番目にあたる)「発光地の菩薩」であったということになります。
弘法大師さまは高野山の奥の院に入定されましたが、1200年後の現代までずっと人々の幸せを祈り、まさに菩薩のはたらきをして私たちをお救いくださっています。
真言宗で日々唱えられている「理趣経」という経典には、「勝れた智慧をもつ菩薩は、生死を盡すまで恒に衆生を利するはたらきをなして、しかも涅槃(覚りの境地)に趣かない」という経文があります。最上位の菩薩さまたちは、あと一歩で如来の覚りの境地に到ることができるのに、いつまでもこの世にとどまって私たち衆生にご利益を授けてくださるのだそうです。何ともありがたいことですね。
人として正しく生きること、助けを必要としている誰かのためにやさしく手を差し伸べることは、そのまま菩薩のはたらきであります。利他の精神で多くの徳を積み、三地薩埵さまに少しでも近づけるよう菩薩のこころを育てていきましょう。
執筆者 千葉県南房総市
真言宗智山派 勝蔵寺住職 田口秀明