今はむかし、大阪安治川の辺に大工を職とすると辰蔵と云うものあり、家豊なりと云うにはあらねど、其日の活計を立兼ぬる程にはあらず、花主(お得意様)もあまた持ければ、浮世を安く送りけり。
明治元年の春、偶々眼病に悩みければ名有る医士共を尋ね回りて浴るばかりに薬を用いたれども聊(いささ)かの験だも見えず。凡そ人の勧むることと言えば加持祈祷は伝うもおろかなり、有らゆる療治を施したれど、露も快き方にはむかわずして、暫しが程に物の黒白(あやめ)も分かずなりにけり。
これも前世の宿業ならんか。今は嘆くとも詮なきことよと思い諦むるものから、行末長き一生を此儘暗の世に送らんこと終天の怨み此上やあるべき。せめては片側の眼たりとも得ば、仮令(たとえ)命は失わんとも惜しむべきことにはあらず、と様々に心をぞ廻らしける。
雨の夜の徒然過ぎ来し方を考うれば、我れ若き時より心様よろしからず、兎角善き事には耳を傾けたることもなくて邪なることのみに耽り、多くの人をも悩まし苦しめたることこそあれ、其報今廻り来りしか神仏の冥罰を当て給ひて、憂目や見せ玉うならん。今日より、心を改めて悪し事を善き事に翻えし、神仏に身の罪を詫び奉らば少しは罪も滅ぶべきか、懺悔の為には如何なる罪咎をも消滅すと聞く。験なき薬を力に頼まんよりは名僧知識に値遇して法教を聞くに如くことやあらんと、茲に初めて善心を起し、家のことは妻女に委ね置き、親類知友に別を告げて住馴れし家を立出でつ。
眼だに見えなば庭に咲ける花の種々露を含みて別れを惜むも見ゆらんを、眼に遮ぎるものとてなければ、行けども行けども同じ暗のなかをのみ、さらばさらばというばかり覚束なくも歩み行く。
先ず土地の氏神に参詣して、次には旦那寺に訪ね行き、先祖の墓所を手探りに探りながら、涙を手向の水として暫しが程は念仏に時をぞ移しける。
寺の住持は辰蔵の挙動を怪み、一室に通して、「其許は何方へ志す積りにか」と問いぬ。
辰蔵は、春来眼病に罹り難儀せしことより発心せしことまで落なく陳並べ、是よりは先ず西国四国を回らばやと思い候なりと答えければ、住持は其殊勝なる発心に感じけん膝をすすめて云えるよう。「そは良き分別なり、されど俄に盲目になりたるは何事にもさぞ不自由なるべきに、諸国の霊場を遍歴せんこと、心元なき限りなり。拙僧予て聞く、河内国瀧谷山の不動明王は霊験赫灼にて、なかにも眼病人の信心して利益を蒙むるもの多しと聞く。去れば四国へ趣かんとする前に先ず瀧谷山へ参籠せられては如何ぞや」と真心籠めて言い出でぬ。
辰蔵はかくと聞くより暗き眼の底にも一道の光りさし添う思いにて、「有がたや今日発願の門出でに願うてもなき善き事を承わるものかな、疾く疾く貴僧の教えの如くなさん」とて悦び勇み厚く礼謝して、暇を告げ一もとの杖に助けられて、当瀧谷山へ来たりしは明治元年九月の初旬なりけり。
それより当山の住職に就きて礼拝の発則を授かり、日夜信心怠りなかりし、同人の眼疾は重きが上にも重く、眼の縁爛れ、瞼腫れ上がりて、双の瞳は五分程も突出でたれば突然ら田螺をかけたるが如くなり。
されば見ん人々も、如何に明王の霊験尊とも斯る眼病の争でか元の如くならんと言い合えりが、辰蔵更に耳にもかけず、過去の罪悪を心の中に懺悔して何卒大慈大悲の加護を以て片眼なりとも助け給え、明王の御弟子となりたるからは向後心を専らにして悪を遮り、善を修むる事をのみ心とせん、哀れ助け給え、救け給えと、寝食をも忘れて祈念すること巳に百日に及びたれど、少しも験だもあらざりければ、今はとても叶い難き願いなるか。斯くばかり信心を凝らして祈る甲斐もなく今生に迷悟を得ること能わずば、生き長らえて甲斐なき我身なり、とても治るまじき眼病ならましかば、此儘一命を取り玉えと身を平伏して拝み居たりけるほどに、或夜御扉の中に声ありて、『汝の罪業未だ尽きず、尚懺悔すべし』と朗らかに聞えければ、辰蔵は信心肝に銘じこれぞ不動明王の御告げならん、業法未だ尽じとあらば、今より尚心を正しくして深く身の罪咎を懺悔せん、ああさても重き罪咎を重ねたるものかな、と自ら惘れ果てたるが斯くては果てじと気を励まし、急ぎ住職に対面し事の次第を告げたりけり。
住職は熟く熟く聞いて、「そは其許の信心本尊明王に達したる験ならん。罪業未だ尽きずと御告げあるからには、遠からずして罪障の尽くる時あるべし。其業の尽きん時こそ、其許の眼は元の如くにぞならん、尚怠らず信心懺悔あるべし」と訓誨したりければ、辰蔵これに励まされて層一層浄心を凝らしたるが、いつのほどにか聞きけん、本堂の正面に方三尺ばかりなる盤石のあることを知り、時は師走の寒天に寒気身を切るばかりなるを事ともせず、其上に端坐して、霜の晨、雪の夜にも寂然として動かず、退かず、寝ず食はず、昼夜の分ちなく、本尊明王の真言を唱え、罪障懺悔に一身を犠牲にしてける。されば身も瘠骯えて見る影もなく衰え、髪もおどろにかき乱されて、両手は合掌したる儘さながら膠にも着けたるが如く少しも放たず、石上微声に真言を唱うる様物凄きこと限りなければ、見る人身の毛も弥立つばかりなり。
斯くてあること七日目の朝、閉じたる眼より濃汁の出ずること瀧の如く、五六日間に二升の出でしが、夫れより眼の腫は次第に治りて、自然心も清々しう頭も軽くなる思いしたりければ有がたや、斯くては再び我眼光を得さしめ玉へるかと涙に咽び尚おも祈念を凝らす程に、断食を始めたる日より三七日に当る朝、右の眦に光明の輝く如く覚えて不図眼を開き見たるに、境内の景色歴々と現れて翠竹霜松に至る悉く眼底に映りたれば、其歓喜何に譬えんようもなく、宛然天にも登る心地ぞ見えにける。
夫れより日々に快方に及びければ、明けて明治二年の一月十五日のこと、更に住職に対面して件の次第を具物語り、「明王の御利益にてさしもの重き眼病も元の明かなる目とはなりたれば、最早身願此上はなく殊に霊験の新たなる実に難有こと申様もなきままに、今日よりは塵の憂喜世を打捨て、二世安楽を願わんと存ずれば、何卒剃髪染衣の御弟子となさしめ給え」と覚悟の体にて頼み聞えたるに、住職は其乞いを容れ吉日を卜して得度させ法名を光海とぞ名ずけたる。
是より後は同じ病に苦しむ人の助けにもとて、報恩の心なるべし、十町斗り南の山奥に入り、更に三七日が間断食の苦行を始めぬ。時尚寒威身も凍る斗り、朔風凛烈として、雪霜破れたる衣を冒せども、信心堅固なれば寂然として動かず去らず、茲に本尊の三昧地を尊信しける。
されば土地の人々此有様を見聞し、其志に感ぜざるはなく、遠近より飯食又は菓子抔を供養せんと通路も有耶無耶の山奥へ運ぶもの引もきらず。
やがて当山の行者と人に崇信せられ、最と慇懃に本尊明王の御給次怠りなかりしが、或日何方ともなく立去りて再び帰らず。遂に其終る所を知る人なしとぞ。
―「瀧谷不動尊霊験記」より転載―