頃は明治二年、大和国宇智郡五條町に植田佐助と云ものあり、其二女の兼(かね)(当時23才)四月十九日の夕方、急(にわ)かに右の眼に痛みを覚えたれば、医者よ薬よと騒ぐ間にその痛み左の眼にも伝染(うつ)りて両眼忽ち盲目とぞなりにける。
されば本人はいうに及ばず、父母兄弟の悲歓は何に譬(たと)えん方もなく、名ある医士を招き薬用怠りなかりしが少しだも験(しるし)見えず。或は奈良、和歌山、又は大阪と、諸所の医者を尋ね回り療治も受けたりど、尚少しも効験(しるし)なければ、今は医薬も頼みなし、此上は神仏の冥助(たすけ)をねがうより致方(いたしかた)なかるべしとて、母の手に引かれて当山(瀧谷不動尊)へ参籠(神社、仏閣に参拝する)せしは其年の十月なりし。
扨(さて)、母子は心を清浄にして祈誓(きせい)に祈請(きせい)を凝しけるが、その三日目に両眼の痛みて堪えがたく、膿汁(うみ)の出ずること一方ならぬば、これぞ霊験の著(しるし)ならんと益々信心怠りなかりしが、二三日ばかりにして痛みの弗に止むと同時に膿汁も亦出でずなり。
十日程経て又元の如く痛み、膿汁の出ずる事流るゝばかりなれど、更に眼光の復せざればさては前世の報いにて、本尊明王の加護だも得(う)ること能(あた)わざるにかと、一時本人は迷いの心を起し、一度帰宅せばやと云うを母親は押止め、否とよこれまで医士と云う医士、薬という薬は金銭を惜しまずして尽くしたれど何の験も見えざりしものを、当山に参籠してより或は痛み、或は止み、又膿汁の出ずること斯くばかりなるは御利益を得るの験ならん。されどまだ全快せざるは罪障深きに拠れるか、或は信心懺悔の足らざるが故ならん、此上は明王の宝前において、尚一層信心を凝すべしと、励ましければ本人も実に道理(もっとも)と帰宅を思い止まりて、一心不乱に祈念をぞ凝しける。
斯くて一百日ばかり過ぎたれど別に換(かわ)りたることもなければ、母親熟々(つらつら)思うよう、娘の眼病平癒を祈らん仏、此本尊を措(おい)て他にはあるべからず。若し本尊にも見棄てられなば娘兼女は生涯人交りも出来ず、人には因果者と爪弾きせられんか、あな不憫(ふびん)やいとしや、此上は如何にせば宜からんと、様々に苦慮をゆぐらしけるが、斯る難病は迚(とて)も尋常の信心にては叶うまじと深く心に決する処ありて人には告げず唯一人、明王の宝前に踞り、娘の眼病終身不治の症ならんには妾(わらわ)が生歯を捧げ奉らんほどに、何卒今一度娘の眼光を与え給えと、一生懸命に念願したるに、其霊応にやありけん、不思議にもそれより七日目の朝、本尊の宝前に礼拝しける母親の前歯一本痛みもなく、ホロリと抜け落ちぬ。
ハッと思いて頭を上ぐれば、兼女は左の眦より燈明の光り微に見得ると云うより母親はあら有がたや嬉や,我誓願の本尊明王に貫通せしかと、母子の悦びの程手の舞ひ足の踏む所を知らず。今は本尊の御利益こそ現われたれと、数時の間嬉し涙に暮れたるは道理とこそ見えにけれ。
其後、或は霞み或いは晴るに任せ、倍々信心を凝らせし甲斐ありて業障も弥尽(いよいよつ)き果けん。二百日間にして全く平癒し、捧げたる母の歯は只一本抜けたるのみ、他に異状もなく歓び勇みて退山せしと云。
―「瀧谷不動尊霊験記」より転載―