当瀧谷山の村長を勤めける奥城良造(おくしろりょうぞう)の父徳次郎なるは、常に当本尊不動明王を信仰し曽(かつ)て利やくを得たることあれば、その報恩の為にとて特に手づから献膳の野菜物を栽培して、明王に捧ぐること多年にて、日々信心し且つ寺の世話をも心切にしてけるが、明治八年の頃、家事に妨げられて怠るともなく暫しが程怠たりたる夫故(それゆえ)にもあらざれども、其年の九月の一日俄に両眼痛み出し時の間に堪え難くなり、遂に眼の光り空しくなりて物の文色をも見ること能(あた)わずなりぬ。
されば心も結ぼれ胸も塞りて、食事も捗々(はかばか)しからねば妻子は驚き、医者よ薬よと狼狽え騒ぐをば、老人は少しも騒がず之れを制して云えるよう。
「我此眼病には医者も薬も決して無用なり。我長らくの間不動尊を信心して供養一日も怠りなかりしが、先頃より事に紛れて誓旨(ちかい)に脊(そむ)きたる其仏罰ならん、今更悔ゆとも及ばざるべし。さりながら我久しく不動明王を信じて其利剣の下に生命をも捧げ奉りしもの、更に罪業を懺悔して信心を凝しなば何とて御利益のなからんや」とて、直ちに当山へ参籠し本尊の宝前に跪づき誓て言えるよう。「我眼病平癒の御利益を蒙ること能(あた)わずは、生きて再び家に帰るまじ、又此堂内をも立出るまじ、何卒眼光を元に復させ給え、若し迚も治るまじき眼病なれば、罪障消滅のため、速やかに我命を召し玉え」と堂内に端坐して泰然動かず、食らず飲まず又寝もせず唯両便に起つのみにて、誦呪懺悔するさま其深信堅固なる宛がら鉄石の如くに見えたりける。
かくて三日目の暁夢とも現とも分かず、本尊明王の現われ給い、「汝宿業によりかゝる病苦を受けしが、今至心懺悔の功徳によりて、更に眼光を与うべきなり。努め信心をな怠りそ。」と告げ玉うと思う間に宝剣を以て眼精を衝き給うに驚きながら、「あゝ有がたや勿体なや」と御袖に縋らんと頭を抬(もた)げたれば、御姿は早や消えて失せ玉いて南柯(なんか)の夢は覚めたりけり。
起上り見れば眼中より血膿流れ出であり、之れを拭い去れば宝前の灯明赫燿(かくやく)として眼光鮮かなるに、歓喜踊躍(ようやく)し、我々凡夫が無明の煩悩消て極楽に往生せんも、斯くばかりならんとて悦び勇みて家に帰りしは、参籠してより僅かに三日目の午前なりき。
其後は復前の如く献膳(けんぜん)の野菜を栽培し、寺門の世話に心を傾け、最とかいがいしく在りしが、明治二十一年一月六日天命を以て、大安楽に往生を遂げられき。
其家督者なる良造主も亦父の志を継ぎ信仰浅からず、今尚信徒として寺門興隆の事に衆諸共補佐しつつあり。
―「瀧谷不動尊霊験記」より転載―