当国南河内郡富田林町に浅野芳太郎という人あり。その祖母に当れるが若き頃、眼を煩いて当山へ参籠し、本尊明王を信仰して、平癒の御利益を得たりければ、本人は言うに及ばず、家内親族一同挙って本尊の信者となり、報恩怠ることなかりけり。
然るに当家は代々肺病の遺伝せるあり、芳太郎も亦何時となく肺病に罹りて、ここかしこの医師に就て、薬用怠ることなかりしも、次第次第に衰弱して、今は明日の日も保ちがたくぞ見えにける。
芳太郎心に思いけるよう、死ぬる此身は厭わねど我もし死せんには当家の血統茲に絶えて、宗廟長(そうびょうとこしな)えに血食せざるに至らむ。されば先祖への不幸此れより大なるはなし、如何やせんと病苦の中よりとつおいつ鬱々と日を送りけるが、適々(たまたま)おもいけるよう、瀧谷山の不動明王は我祖母の眼病を助け給いたる霊仏なり、曽て仏の慈悲は広大無辺なりときく、然れば一心を籠めて不動明王に祈願せば、世々累代の難病たる我病も或は平癒せん、誠心誠意に何とて眼病者のみの霊験ならんやと、忽ち心に大願を起し、当病平癒の為めに信心を初め代参を立てたるは、明治十二年十月十五日のことなりし。
其利益にや夫より少しずつ病の怠たりたれば病の身をも厭わず、人に扶(たす)けられて参詣し自身と代参とを問わず一百ヶ日の日参を発願し、偏えに浄心を運びけるが、其霊応空しからず、さしもの大病も百ヶ日日参の間に遂に平癒したれば亦一家の喜悦大方ならず。既に危かりし血統も相続するを得たる其嬉しさ譬(たと)うるにものもなく一族集いて祝いたると。さこそにこそ。
爾来(じらい)再発をもせで最と健やかになりしかば返す返すも本尊明王の霊験ありがたき限りなりとて今に毎月二十八日の御縁日に参詣怠たりたることなしとなん。
此事実別段の奇瑞なきまゝにかゝる霊応の程は枚挙に遑なきゆえに本編には記載すべきにはあらざれども本人の切望(のぞみ)に任せ聊(いさゝ)か記し置きぬ。
―「瀧谷不動尊霊験記」より転載―