大阪市農人橋二丁目に藤田小七(こしち)という人あり。明治十七年五月の頃より眼病に罹り、名医良薬を尋ね廻り只管(ひたすら)療治(りょうじ)に心を尽したれど聊の験しだもなく、益々重症に趣くにぞ。
甲の病院より乙の病院へ、乙の病院より丙の病院へと、大阪はいうに及ばず、京都・神戸等の各病院の有名なるは残る方なく、治療を乞いたれど、遂に其効もなく眼の光りを失いて全盲の身とはなりぬるものから、こは如何せんと悲歎(ひたん)の末、最初に治療を受けたる緒方病院へ趣きて、更に病院の診断を乞いけるに、院長いえるよう。
「此眼病は予て療治せし頃より、既に眼精の根基腐朽しあれば、更に視線の復すべきようもなし、今は早如何ともせん方術もなければ、医薬の念慮を絶たれよ」と。
聞く本人の落胆並に家内の歎き大方ならず。唯頼とする医薬の力にも及ばぬとあれば、最早如何とも致方なきか。悲しや生涯を全盲にて果たすべきか、と天に歎き地に悲しみ、身も心も瘠せ果ぬ計り打困(うちこ)うじて日を送りけるが、或日知友の人問い来り、「君聞きたまわずや、河内国瀧谷山不動明王の霊験新たなることを。如何なる眼病にても一心を籠めて参籠信心せんには、御利益を得んこと疑いなしと。然れば疾く心を清めて祈願したまえ。」と、聞く小七は大いに歓びさる新たなる霊仏のましまさば、信心の利益に聊たりとも明を得ることあらば、既に焼きたる宝を拾うにも勝りたる歓びあらんと、知友の勧めに任せて、同じ年の末つかた、当山へ参籠せり。
斯くて信心を凝らすに、我まだ三十路あまりにて末長き身の此儘(このまま)盲目にて終らば、我身のみか一家の不幸是れより大なるはなし。何卒片側の眼たりとも今一度明を得さしめ玉え、と訴うるが如く泣が如く、一心に真言念誦すること三週間四週間に及べども何の験しだのなし。
こは仏の御力にも治し難き難病ならんか、到底利益を得ること叶わずば、いつまで参籠するとも益なからん。明日にも帰宅せんかと思いながらも尚祈願を怠たらず、梢乎(しおしお)と寝床に就きけるに、其夜の夢にありありと不動明王現われ給ひて「汝宿業深くとても世間の医薬の力にては本復し難きものなり、されど、其発起信心最と篤きがゆえに、尚身を忘れて信仰怠ることなく、遮悪修善に人の模範ともなるべきあらば、再び眼光を得ることあるべし」とありければ、あな有がたやと思う間に尊体は消え失せたまう。時に怪しみて目を聞き見れば、微かに物の文色(あいろ)ぞ映じける。其時の嬉しさ何に譬(たと)えん節もなく、直に御堂の前に至り、伏し拝みて一層誠心を凝し誦呪祈念しけるが、茲に又不思議なるは、同人の妻も宅に夫の留守を貞実に同じく信心を励ましてありしが、同夜是も夢を見たりとて、夫の容体いかにと明るを待兼当山に来て、其由夫(そのよしおっと)に物語れば、夫の夢と符節を合したるが如く同様なりしと。
夫より本人は帰宅の思い頓(とみ)にやみ一家内のものに至る諸共にますます信心を起し、小七は心に若し眼光を復させしめ給わゞ教令(みおしえ)の如く、力らの及ばん限り信者の先導者たらんことを誓い、日夜怠りなく更に七週間程を経て、追い追いに快よくなり、先きには眼球突出し、既に視線も腐朽したりと云われし眼も、今は算筆にも差支なきまでに快復せしかば、其悦(そのよろこ)びのほどは実に言葉に尽様もなきさまに左こそと思わるゝ計りなりし。
彼の名医の放棄したる眼の光りを得たることなれば、宛も死別せし愛子(あいじ)に再開せし如く悦び勇みて、三ヶ月目に目出度退山せられたるは同籠(ともにこもり)の人々も非常の御利益なるに驚嘆せざるはなかりし。
夫れより小七は帰宅せし翌日、曽て治療の望みなしと断定せられたる医師許趣きて其眼を診察さするに「猶視線(やはりみるちから)なし」と、院長は云いぬ。「然るに見得るとなれば蓋は全く不動明王の威力によて眼光を与え玉いしものならん」と、是れも驚歎大方ならざりしと。又其后之れを訝(いぶ)かる大医の来たりて試診するに、孰れも矢張視線なしとすと、夫れ実に神変不思議ならずや。
扨も同人は参籠中本尊に誓言せし如く、大阪開信講の世話人となり信者を善道に勧誘し、月参怠りなくて、明治二十四年よりは船場にて一の講を組織して不動講と称し、自ら講長となりて講員を拡張して、一家一族とも大信者となり年々登山信心怠りなし。
―「瀧谷不動尊霊験記」より転載―