日本三不動の一 ロゴ 瀧谷不動尊

明王老翁に現じて霊験の赫灼いやちこなるを説き玉いしという事

明王老翁に現じて霊験の赫灼なるを説き玉いしという事

 今を距ること十四年前、堺市九間町東一丁に士族井上某(それ)と云える人あり。其妻の信子二十三歳の時、女の子を儲けしが、其翌年三月偶々眼病に罹(かか)りぬ。

 初めのほどは左程にもなかりしにぞ、土地の医師に就きて療治を加えしかど少しの験(きき)だもなく、人々の勧めに従い加持祈祷は言うも更なり、良しと云えることは遺すことなけれども病勢次第に加わりて、その年七月に至り両眼とも全く明を失いたければ、掌中(たなぞこ)の玉とも愛で慈みし我子の顔だに見ること協(かな)わず。いとど歎き悲み居たりしが、一日(あるひ)当国泉南郡(とうこくいずなみごおり)に名高き大路村の眼医者あり。

 是は至って眼科の名人なりと聞き、早速車に扶けられて其医家(そのいしゃのいえ)に行き診察を乞い治療を受けたるが更に功験(きゝめ)の顕(あら)われざるのみならず、数週間(はつかあまり)の後に至り該眼(このめ)は迚(とて)も全快の見込みなしとて、投薬(くすりだす)をも謝絶(ことわり)せられたりければ、、本人の落胆限りなく、詮方(せんかた)もなくなく帰宅の道にぞ就き、車上にて就々(つくづく)思い回らすに、妾嘗(わらわかっ)て不浄のことを為(な)したる覚えもなく、又他人に迷惑を掛けたることもなきに、斯く日光(ひのひかり)だも見ること能わず、悲歎の境遇(さかい)に陥りしぞ、抑々如何(そもそもいか)なる前世の宿業にや。力と頼む大医にも見放され迚も治るまじきとあるからは、此稚児の顔を見ることもならねば生き在(ながら)えてあらんよりは、寧(いっ)そ一思いに淵川へなり身を沈めんこそ勝(まし)なれ。否々又思えば、愛らしき此乳呑児(このちのみご)を残していかでかは後世(あのよ)へ旅立たれんと。

 彼を思い是を想い鬱々として車に送られ、泉北郡北王子村(いずほくごおりきたおうじむら)まで来たり、道傍(みちばた)の茶店に車夫(くるまや)の憩うものから、暫時休息してありける。

 折から偶々一老翁(たまたまひとりのろうじん)の同じ茶店に入り来たりて、つくつくと信女(のぶじょ)の顔をみて後、「御身は未だ年端(としは)も若きに乳呑児(ちのみご)を抱えての眼病とみえたるか、定めし難儀なることならん」、と慰め顔にて言いければ、信子は「何方(いずかた)の御方かは存知もおさねど、御親切にのたまうものかな、いかにも妾は生まれも附かぬ盲目となり、今は医士にも見放され其帰路にてあります」、と答えつつ悲歎の涙に人の見る目もいじらしく見えにける。

 復(ま)た老人の日(い)えらく。「そは歎き悲しまるゝも道理なり、御身を見請けるに死にもすまじく心の中は麻の如く紊(みだ)れてあらん、いかにもお気のどく千万におもほゆれ。所詮医薬の効はあるまじければ、茲(こゝ)に必らず治すべき方便(てだて)を教えまいらせん。河内国瀧谷山の不動明王は霊験最と著なれば、急ぎ同尊を信仰せられよ。信心懺悔(さんげ)の程によりて験なきことはあるまじ。」と言い終わりしかと思えば早何方ともなく立去失せぬ。

 信子は暗夜に燈火を得たる思いに喜び、老人に一礼せばやと見ることも叶わぬ目にて当り見んとすれども見えず。何(いず)れにか去りぬるを車夫(くるまや)にきゝて、最(い)と不審におもいつゝも力を得て家に帰り、先ず医士に療治を謝絶せられたること、及び彼の北王子村の茶店にて老人の心切なる教示の事より不審の廉(かど)々を物語れば、夫は一度は驚き一度は悦び、「何はともあれ、其老翁の話はそれぞ我日頃信仰する不動明王の仮りに老人の姿と化して汝に告げ給いしものならん、いざ少しも猶予すべきにあらず。我代参して其方の眼病平癒を祈らん。」と其翌日旅装いして、当山へ登らんとぞ為したりける。

 その時信子は嬉しげに、我が無二の信心のほどを表わさんとて、惜しむべき緑の黒髪を惜気もなく根本より弗と切放ち、これを不動尊に捧げてよと夫の手に托しぬ。井上某はそれを懐にし、只管道(ひたすらみち)を急ぎつゝ当山へ参詣したるは明治十八年八月十八日のことなりけり。

 扨(さて)、同人は本尊の宝前に跪(ひざま)ずき、信子の眼病平癒を祈るに先ず一週間日参〈四里余(りよ)〉せんことを誓い、切めて片眼たりとも明かに為さしめ給えと、一心不乱に念願を籠めたる上尚我等は凡夫の浅墓なるものなれば、何卒一週間日参の中に大悲の霊験を示し玉えと、返す返すも拝み終わりて、鰌(どじょう)を放生池に放生(はなち)し即日家に帰りて妻に云えるよう、「我代参して克(よ)く克く祈誓し来たりしほどに、此加持水を以て目を洗い只管信心(ひたすらしんじん)を凝らすに於ては必ず一週間(なぬか)の中に御奇端(ごきずい)現われん。ゆめ疑いそ。」と信心を奨(すゝ)むれば、信子は待兼たることとて喜び勇み取敢(とりあえ)ず、其加持水にて目を洗い偏(ひと)えに信心を励まし昼夜念願したりける。

 かくて夫は日々四里余の道を遠しとせず日参に余念なく、今日は早六日目となりたれど未だ何の験もみえず。さては不動明王にも救護(たすけ)し給うこと叶わざるか、と凡夫の浅ましさに聊疑念(いささかぎねん)の雲を起こしけるが、復(また)つくずくと考うるにこれ畢竟我等(ひっきょうわれら)が信心未鈍(いまだににぶ)き故ならん、と信子は一間の中に閉籠(とじこも)り其夜は少しもまどろまず、念仏に余念なく、一心に信心を励ますほどに、夫は天の明くるを待兼、日参するに本日は満願の七日目なれば、一命をも捧げんばかりに誦呪拝礼(じゅしゅはいれい)し誠に無理なる願いなれども予(かね)て願の通り何卒大慈大悲の霊験のほどを示し玉えと、宛(さな)がら狂気(ものぐるい)せし如くに堂に登りて祈り居たりしが、何時の間にやら頻りに寝むけを来たしうつうつと夢心地に、鰌の群れ居るを見、凝視(よくよくみ)すれば皆片眼なるにさてはと思えば夢は覚めぬ。

 あなありがたや、是れぞ過日(すぎしひ)放生(いけはな)せし鰌の身代りて、妻の片眼は治るとの御告ならめと内喜び、又もや鰌を放生(にが)して、本尊には我無理なる願を容(い)れ玉いしと、天にも登る心地して歓喜雀躍礼謝(かんぎじゃくやくれいしゃ)し、急ぎ勇みて帰途に就きぬ。此時は午前十時頃にて、宅の信子は打伏し拝みて頭を抬(もた)ぐれば、障子の桟(さん)の薄く見ゆるを覚えたれば、あなやと驚きて傍に寝たる我子を探れば未だ定かならねど容貌(かおかたち)の愛らしき様ぞ見えたるにぞ、夢かと計り飛起(とびた)ちて舅姑(しゅうと)を呼び、「もうし目が見ゆる様になりました。」と号(さけび)つゝ、悦ぶこと何に譬えん方もなく、感涙を浮かべて先ず本尊の方に向い礼拝礼謝し、それはと飛来たる舅姑に目を見せければ、黒みかゝりたるかゝりものは多くて瞳は明きらかならねど、右の目尻よりすこし見ゆる容子なるに、是亦(これまた)悦(よろこ)び合いつゝ、夫はまだ帰えられぬかと待兼居たるほどに、井上其は早く彼の鰌の霊験を話しきかせんと、飛ぶが如くにして午後三時頃帰宅するや、帰りを待兼たる妻の方より、「もうしあなたお悦び下され。十時過ぐる頃より少し見得るようになりまた。」と。聞く夫は「エヽイそれは実(まこと)か」と眉を開きて或は感じ或は喜びは限りもなく、「アヽ有がたや不思議なるかな」と当日本尊の宝前に参拝祈願の中の奇瑞のほどを、いちぶ始終おちもなく両親始め妻に語りきかすれば、一同その霊応の新たなるに賛歎(さんたん)し、彼の老翁(ろうじん)の告げ知らせのことより又七日日参の中に霊験を示し玉えとの願のごとく七日目の今日御山にての霊夢と云い、猶夫(なおそ)れと同時刻に信子の目の明を得たることどもを語り合い、重々何とも有がたきこと此上もなき霊験ならずや、と家内一同昨日に代る今日の悦びのほどは何とも亦云いようもなき次第にぞみえにける。

 それより益々信心を励ましたるに其甲斐ありて日々薄紙を剥ぐが如くにして、一月余りの中に眼光旧(めのひかりもと)に復したりと云う。

―「瀧谷不動尊霊験記」より転載―

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