当隣村東條村大字佐備(とうりんそんとうじょうむらおおあざさび)に中尾門蔵(なかおもんぞう)というものあり。明治廿一年二月眼病を煩(わずら)い初(そ)めたれば、直(じき)に近村の医士に治療を乞いたれど、捗々(はかばか)しからずとて大阪に趣き二三大医の治術を受けたれど、医薬の力には及ばざりけん。
これも験(しるし)なきものから更に泉州大路の眼科専門なる名医許(めいいがり)ゆきてさまざまに療治を受けしかど、これまた少しの効験(ききめ)だもなく、遂に全盲となりたれば朝夕に歎き悲しみ居たりしに、一日(あるひ)眼(め)の底痛み劇(はげ)しく如何とも堪え難かりければ、髪を攫(つか)んで悶え苦しむほどに凡(およ)そ七八分ばかりも眼球突出したりけり。あゝ如何なる罪の報いにて、かゝる浅ましき憂(う)き目を見ることぞ、かく重症にては迚(とて)も治るまじ、生涯を全盲にて果てんより他はあるまじきかと、鬱々憂(うつうつうれ)いに沈みありしに其夜不動明王枕頭(まくらがみ)に立ち給い、御手(みて)の宝剣(つるぎ)にて眼を突き玉いしよと見て驚き宝剣(みつるぎ)に縋(すが)らんとすれば夢は覚め果てぬ。
さても不思議の霊夢を見つるものかな、と思いつつ眼を開き見れば痛みは少し薄らぎし方なるに、家内の者を呼起こして眼の様(さま)を見さするに、飛出たる眼球の少し引込みたるようなりと、聞く門蔵(もんぞう)大(おおい)に打喜び、今日まで不動尊を信仰することの怠りしは愚なりしも未だ捨玉わず、御導引(おんみちびき)の験(しるし)ならめと天(よ)の明(あ)くるを待ちかねて当山へ参籠せしは同年六月九日なりき。
扨(さて)も此眼(このめ)を見る人々はいかに本尊の大悲と雖(いえど)も、かかる重き眼病は如何にしても眼光の再び得らるゝことはあるまじと云うを耳にもかけず、授けられし法則を日夜念誦信心し、身の罪業を懺悔して聊(いささ)か不浄業をなさず。十善戒の旨(むね)を体し、せめては片眼なりとも平癒せしめ玉えと願念を凝らせしこと五十日余におよびし頃、有がたや尊(とうと)や、曽て医薬の験は露だもなりかりし目に、今はやゝ少し光を放ち、突出たる眼球も次第々々に元に復し、七十日目にして仏燈(みあかし)の光りありありと見えたれば其嬉(そのうれ)しさ宛(さな)がら地獄にて仏に会い奉りしも斯(か)くやと思われぬさまなりし。
夫(そ)れより少しづゝは快方(よきかた)に趣きたれど参籠(さんろう)してより百日におよぶ頃、猶捗々(なおはかばか)しからざるものから、門蔵(もんぞう)つくづく思うよう。我始め医士の治療を尽くしたれど、所詮治療(とてもちりょう)の効(しるし)なしと言われぬ。然るに十中の三四分まで見得(みう)るようになりたるは、全く本尊明王の御利益にて実に有りがたき限りなり、先に医薬に見放されたりしも、かく霊験を蒙(こうむ)りたる上は再び医薬の力に頼る方早(かたはや)く治(じ)せんかと、凡夫の心の浅ましくも更に大阪の其医院(それいいん)へ入院して治療を受けたるが、治ることは愚か日一日と眼の光りの消え失せて三週間ばかりにして、復元(またもと)の全盲となり果てぬ。
其時の驚きいうばかりなく、巳(すで)に不動明王の大慈に由て十中の三四分(ぶ)まで平癒せしものを、我愚(われおろ)かにして広大無辺の慈悲を思わず。捗々(はかばか)しからぬをもどかしく、迷いの心を生ぜしを忿怒(いかり)し給いしにやあらんと早くも心づき、急ぎ帰宅の上再び当山へ参籠し、罪障懺悔(ざいしょうざんげ)して同籠者(どうろうしゃ)と共に一心不乱に信心を励みたれば、有がたや元の如く眼光(めのひかり)を生じ更に百日を経(へ)る中に何不自由なく、平癒の大利益を蒙(こうむ)りたるは、世にも誠に尊きことにこそあれと、此眼病(このがんびょう)の治せしを見聞きする人々驚歎(きょうたん)せざるはなかりき。
又翌年に一月下山してよりは、恩報(ほうおん)の為とて三年の間日参怠たらざりしは奇特なりけり。
―「瀧谷不動尊霊験記」より転載―