日本三不動の一 ロゴ 瀧谷不動尊

崇門を問わず救護たすけたまえる事

崇門を問わず救護し給える事

 泉州貝塚町(せんしゅうかいずかまち)徳野庄助(とくのしょうすけ)の長女鶴(つる)と云えるが、明治二十三年三月頃より八歳にして眼病にかゝりたれば、早速同所の医士に就て診察を受けたるが大分重症なりと聞(きき)、両親(ふたおや)は非常に驚き、「少しも猶予なりがたし。早く良医(めいい)を撰(えら)ばん」と近群(きんぐん)は申(もうす)に及ばず、堺市の医士(いしゃ)又は大阪の病院等に行きて、治療を受けたれど孰(いず)れにても医薬の効験(ききめ)見えず。遂には盲目同様の身となりければ、最早(もはや)医薬の力にも及ばねば「家に帰りて静養(ようじょう)せよ」と医士には見放され、両親の悲しみ何に譬(たと)えん物もなく、世に力と頼みたる医薬も今は験しなきかと落胆の余りさながら狂気の如くに騒ぎ立つれど、致し方もなくなく兎(と)や角(かく)と憂慮(しんぱい)してありし。

 折から知人の来りて、当山の不動明王の霊験著(れいげんあらた)なるを語りて本尊信仰を注告(ちゅうこく)しぬ。然るに、此の家代々浄土真宗を崇奉(すうほう)し居れば、今更不動明王を信仰せんこと一向専念(いっこうせんねん)の祖旨(そし)に反(そむ)く嫌(きら)いあり。さりとて他に良法もなきものから、一日(あるひ)親類(しんるい)一同を招き集いて、前来(ぜんらい)の自一至十(いちぶしじゅう)を話聞けて協議(そうだん)せしが衆議区々(しゅうぎまちまち)にして頓(とみ)に決せず。其中の一人膝(ひざ)を進めて言えるよう。「何条斯(なんじょうかか)るかのむつかしき協議(そうだん)の入るべきぞ。かくまで医薬を尽したる鶴女の眼病も、今は頼みなき身の長く暗の中に置かんよりは、不動明王の御利益にて元の清やかなる眼に為すこそ親の慈悲なれ。如何に崇旨(しゅうし)違いなればとて、阿弥陀如来も不動明王も一仏教(おなじぶっきょう)の真理により救護(くご)し給うものならんには、何とて不可乎(ふかか)あらん。抑々一向専念(そもそもいっこうせんねん)の祖旨は我等が迷心(まよいこゝろ)を誡(いま)しむるのみ。速に不動明王にお鎚(すが)りもうして可(よ)からん」と言いければ、一同これを道理(もっとも)として本尊を信心すべき事に衆議一決したれり。

 茲(ここ)に本人を伴(ともな)いて当山へ参詣せられたるは明治二十三年八月廿八日のことなりし。それより信心怠りなく両親は一心に祈願を凝しける。七日目に聊験(いさゝかしるし)を得たれど、其后月余(そののちひとつきあまり)に及ぶも更に何の験もなければ、尊き不動明王のお力にても此眼病は治るまじきか、あるいは我等が罪障深くして容易に消滅し難きに由(よ)るか、仮令何(たとえなに)ほどの罪障(つみ)あればとて一心懺悔の功徳になどか御利益のなかるべき。と母親は心ひそかに祈誓して娘の為に我片眼を捧(ささ)げ奉(たてま)つらん、何卒娘の眼を救護(たすけ)たまえと、一心不乱に礼拝すること更に三七日に及ぶ其日の朝、目を覚ましたるに、左の眼に痛みを覚えたれば、さては心願空(しんがんむな)しからず、我片眼を召(め)さるるからは娘の眼病平癒せしめ玉(たま)うならん、と急ぎ盥嗽(てあらいくちすゝぎ)し、本尊に礼拝(らいはい)せんと仏前に燈明(みあかし)を捧げ合掌帰依(がっしょうきえ)する時、鶴子は駆来(かけきた)りて、「母上よ今朝は眼が明いた、其処(そこ)の燈明(あかし)の光りの微(かすか)に見得る」と言えるにぞあな有がたや嬉しや、霊験こゝに現われしか、と家内一同寄集(よりつど)い悦び泣声暫(なくこえしばら)くは止まりざりけり。


 それより猶(なお)も一心に信心を励ましたる功徳(くどく)にや、日々に薄紙を剥ぐが如くに、百日余(よ)を経て素の清眼に平癒したり。而(しか)も母親の目は少し痛みを覚えたるのみにて更に別条なかりしかば、已(すで)に捧げ奉りし目も無事にして娘の目は両眼とも清眼になさしめ玉えるぞ、不思議の大利益なりとて是より本尊の大信者とはなられぬ。

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