日本三不動の一 ロゴ 瀧谷不動尊

本尊霊光を授け給う事

本尊霊光を授け給う事

 摂州西成郡勝間村(せっしゅうにしなりごおりかつまむら)に多田宇兵衛(ただうへえ)と云う人あり。其妻のちかといえるは、元来当山不動明王を信仰してありし由(よし)なるが、明治廿三年(にじゅうさんねん)の頃図りなくも重き眼病に罹(かゝ)りたれば、医薬を用いつゝも本尊に祈願を籠(こ)めてありしが、更に功験(きゝめ)なきのみならず、段々重症に赴(おもむ)くものから心に迷いを生じ兎や角と思い煩(わずら)い居折(おるおり)ふし、同村の某教信者其(ぼうきょうしんじゃそれ)の来りて「我等が奉(ほう)ずる其教を信仰せられよ、いかなる難病も忽(たちま)ち平癒すべし。」といえるに、ちか女は何心(なにこゝろ)なく其勧(そのすゝめ)に従い某教の信者とはなりぬ。同心者と共に信心し、或(あるい)は其(それ)の言えるまにまに祈祷を乞いなどしてありしが、聊(いさゝか)の利益なきのみか益々重(ますますおも)りて遂に盲目の身となりけり。

 こは如何(いか)にせん悲しやと、今更の様に騒ぎ立つれど同教にては医薬を禁ずる故に困(こう)じ果てたれど、暫(しばら)くは人の言うに任せてありしが未だ三十路の末長き身の猶大切(なおたいせつ)なる眼なれば、何卒(なにとぞ)して今一度眼光を得度思案(えたくしあん)に呉(く)れたるを夫は見てとり、是迄(これまで)に何の験(しるし)もなき其教なれば、寧(いっ)そ該教会(がいきょうかい)を脱し医薬の力による方よろしからんと、言わるゝを幸(さいわい)に、某教信仰(ぼうきょうしんこう)を止め、大阪の病院に趣き百日程も治療を受け薬用怠たらざりしが、矢張一向(やはりいっこう)に功能顕(こうのうあら)われざれば、今度は泉州大路(せんしゅうおおじ)の眼科医に就き診察を受けたるに

 「此眼病(このがんびょう)は最早(もはや)快復(かいふく)の見込なし、我手術薬法(わがしゅじゅつやくほう)の及ぶ所にあらず、寧(むし)ろ瀧谷の不動尊を信心せられよ。」と言い放されければ、落胆すること言うばかりなく、最後の頼みとしたる名医の斯(か)く言われる上は、更に致しかたも取付(とりつ)くしまも今は絶え果て、当山へ参籠(さんろう)せんとは思えど元信仰せしをすてゝ其教を迷信して全く明(めい)を失いたるかたがた、凡夫(ぼんぷ)の何となく心の咎(とが)めて足の重く、さればとて此(この)まゝ盲目にて世を送らんは生きて楽しみもなき身の上のみか、夫や我子にまで苦労を掛けんことの悲しさよと、泣暮(なきく)らしてあるを夫(おっと)卯兵衛(うへえ)も見るに見かね、或日(あるひ)難波(なんば)の易家(えきしゃ)に趣き占孝(うらない)を乞いたるに、未だ病状も言わざる中巳(うちすで)に易者断(えきしゃだん)じて卯兵衛に言えるよう、

 「此人(このひと)は眼病にて盲目となりて心迷うて居らるゝならんが、今は医薬も及ぶ所にあらず。」と聞いて卯兵衛も落胆(ちからおと)し、「所詮治る道なきや」と問い返せば、

 「唯(たゞ)あるは心を清めて河内瀧谷山の不動明王を信仰せば或は大慈(だいじ)の救いを得んのみ。」と言うに、卯兵衛は半ばを聞いて急ぎ宅へ帰り、件(くだん)の次第を妻の近女(ちかじょ)に告ぐれば、あら有難(ありがた)やと夫婦諸共に感涙に咽(むせ)び、一時の迷心(まよいごゝろ)より他(た)に心を移し、䟽(うとみ)し不動明王には未だ捨玉(すてだま)わざるか、他に助かる道のなきに、孰(いず)れにても不動明王の大慈を乞うにあるのみと、言わるゝからはお導引ならん、今は何をか躊躇(ちゅうちょ)せんとて、重き足に鞭(むち)して当山へ参籠(さんろう)せしは明治二十四年四月八日の事なりき。

 斯(か)くて先(ま)ず拙僧(せっそう)に謁(えつ)を乞い、抑々(そもそも)迷(まよ)い始めたる事より今日までの自一至十(いちぶしじゅう)を表白し、如何(いか)にしても他に致方(いたしかた)のなき眼病も只当御本尊(たゞとうごほんぞん)を信ずるにありと、聞いて便(たより)なき身の生死(しょうじ)の境い鉄面皮(てつめんぴ)にも心を決め前非懺悔登山(ぜんぴざんげとうざん)せし程に、哀れ何卒御詫びの上本尊大悲の加被を得せしめ玉えと、涙を浮かべて縋(すが)りぬ。

 茲に拙僧(せっそう)は「善哉々々(ぜんざいぜんざい)、誠に言(こと)の如く発心懺悔(はっしんさんげ)し本尊の所に登山さらるゝからは、既に幾多の罪障も消滅し必ずや御加護あらん、努(ゆ)め信心怠る忽(なか)れ。」と法則(ほっそく)を授けぬ。

 されば本人も打喜(うちよろこ)びて是より一心不乱に大慈大悲の御袖(おそで)に取縋(とりすが)り誦呪礼拝(じゅしゅらいはい)に余念なかりし。其廿日目の夜本尊枕辺に立ち玉い最妙々(いとたえだえ)しき御声にて、「汝の罪障甚(ざいしょうはなは)だ深きが故に再び両眼の明を得ること難し、されど懺悔信心(さんげしんじん)の徳に由(よ)り我汝(われなんじ)の労苦を受けて汝に眼光を得(え)させん。」と告げ給いしと覚え扨(さ)て有難や、と思う間に御姿(おすがた)はかき消す如く夢は空しく破れぬ。是(これ)ぞ明王の霊夢(れいむ)ならんと、急ぎ眼を開きたれど見えず。扨(さて)は迷いの夢なりしかと心の中(うち)に異(あやし)みつゝ、天の明くるを待兼身(まちかねみ)を清め口を漱(すゝ)ぎ手を曳かれて本堂へ登り、心静かに后夜(あさ)の勤行を終わり、打伏し拝みて頭を上げしに、始めて微(ひそ)かに宝龕(みずし)を拝することを得たれば、ちか女は余りの嬉しさに「あな有難や、辱(かたじけ)なや。」と飛び上り踊り上りて、龕前(がんぜん)近く進み寄り声を上げて拝むにぞ、傍(かたえ)の人々も奇異(きい)の思いをなし、諸共瑞木(もろともずいき)の涙に咽びけり。

 是れなん同月二十八日の御縁日にて、登山(とうざん)してより廿一日目(にじゅういちにちめ)の朝なりき。

 其后或(そののちあるい)は朦(もう)と為(な)り或(あるい)は明(めい)となり、更に七週間を経てさしもの重き眼病も何不自由なく、秋毫(しゅうごう)の末まで明かに見ゆるゝまでになりぬ。されど他の見る目には、眼精うるみて視線ありとは思われず。然るに能く見ゆるとは、実に霊夢人(れいむひと)を欺(あざむ)かず、本尊霊光(ほんぞんれいこう)をちか女に授け給いけん、尊しとも尊き限りならずや。

 さる程に家内一同嬉しさの余り、其后報恩(そののちほうおん)のため御花講(おはなこう)の講元(こうもと)となりて、同信者を募りて邪見(じゃけん)の夢を覚ましつゝ、寒暑雨雪(かんしょうせつ)の厭(いと)いなく毎月廿八日、同村にて同じく不思議の御利益を得たる、酒田(さかた)はな女の母鶴女(ははつるじょ)、領本国子(りょうぎくにこ)初め夥(あまた)の善男女と共に参詣怠りなきは一日の如く、目下講員(もっかこういん)は数百名に及び最(い)と盛大にせし等、其献身信仰(そのけんしんしんこう)の様誠(さままこと)に知恩(ちおん)の人と云うべし。皆かく有りたきものぞかし。

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