当山より一里程西南に一新野村字四津と云う所に吉田玄省なる名声の医士あり。此人明治二十三年四月頃当山境内の接近地へ内外科診察出張所を設け、一日当寺へ来り刺を通じて拙僧(『※当時の高取慈教住職』)に面会せんことを求められぬ。困て一室に引き面会せり。別段要用のあるにもあらでただ隣地へ来たりたる挨拶に過ぎざるものの如き。
拙僧問て曰く、「斯る山間僻地に診察所を設けられしは何の御見込みにや」と。労医答えて曰く、「其不審一応御尤なり、これには所似あることなれば今拙者より具さに披陳せんと思い居りしところ、拙者事昨年の末つ方より両眼霞みて甚だ不自由を感じ、それぞれ薬用したれど捗々しき利目もなき困難せり。さりながら盲目と伝うにもあらざれば業務を廃する程にもなきものから、不自由ながら其日を過ぎにし。然るに折節に爽快なることあり。之を医術上より考えるに少しも合点行かず。唯々不思議というの外(ほか)はあるべからず、と思いつゝ如何なる訳かと思慮を廻らし居る折柄、先般も当山の境内を通過し患者の家に往診せし其翌朝は、両眼晴々として誠に快よきに、翌日は元の如くになる。茲に聊気づき、其後当山を通過せし翌朝如何と天の明くるを待兼試みるに、矢張爽快なるに就々既往を顧慮せば、当山を通過せし其翌朝は果たして眼の爽かなることの分かりし。
拙者元来神仏を信仰すること冷淡なれば、当山を通過する折とても多く眼病人の信仰する不動尊なるにも不抱、曽て信心する心もなく、只路傍より黙礼して通過するに過ぎざりし。然るに当山を通過せし其翌朝に限り、必ず目の霞晴々とすること誠に不思議というも愚、不信仰なる我等にても、御境内を只通過せし其因縁を以て救済し給える大悲のほど、茲に初めて感佩すると同時に信仰心を起こしたれ。されど自分の眼病は大患というにもあらず。殊に一日たりとも暇なき職業なれば、参籠又は日参する杯も出来がたく、故に信心せん便りに此出張所を設け、業務の余暇を以て本尊礼拝せんと欲しての事のみと、其後は追々霞の薄らぎて今は晴眼も同様になりぬ」とて、最と嬉し気に又来りて伝わるゝよう、「実に当本尊の霊験の著なる何とも敬服の外御座なく、拙者如き不信心者にても啻に境内を踏みたる計りを因縁としてかゝる利益を施し給う、況や発心懺悔し信心参籠する人々に於てをや、と今日は左こそと思い候なり。返すがえすも思一思より有難きことにぞある」とて爾後当山の信者とはなられぬ。