日本三不動の一 ロゴ 瀧谷不動尊

すっぽんどじょう人の目に代りし事

鼈鰌人の目に代りし事

 摂州西成郡難波村(せっしゅうにしなりごおりなんばむら)に木村音吉(きむらおときち)といえるあり。其次男の捨吉(すてきち)というのは明治二十三年三月頃より眼病を煩いて、容体一方(ひとかた)ならざれば大阪市中の眼科医にかゝりたれども、効験(きゝめ)少しも現われず。人の勧めにまかせ遠近(あちこち)の医士の治療を受けたれども、其甲斐なく遂に盲目の身となりにけり。

 されど本人は子供のこととてさのみ歎(なげ)くさまもなけれど、両親(ふたおや)の心労何と言わん方もなく、何とかして子の眼の治る工夫はなきか、思えば末長き生涯を暗の中に送らせんことこそ哀れなれと歎き悲しみてありしが、適(たまたま)思えらく同じ難波の内に売卜者(ばいぼくしゃ)の名人あることを。取りあえず其易家(そのえきか)に赴(おもむ)き、我一子(わがいっし)捨吉なるもの只難病に苦しみ居るとのみ言いて「眼病に悩み居るよしは言わで」平癒の道ありや否と易断(えきだん)を乞いたるに、易者は形の如く卜(うらな)い終わりて日(い)うよう、「此子(このこ)は眼を悩みて遂に盲目となられたるならん」と星をさし、「今は医薬を用ゆるとも其甲斐(そのかい)あるべからず」と言い放ちたれば「そは我等も左(さ)こそと思え、他に治る法はなきか」と問い返せしに、彼れ暫(しばら)く思案してのち、「さればその法なきにしもあらず」と答う。「なに他に方法ありとか、そは如何なる方法ぞ」と問えば、彼れ云えるよう。

 「此地より七里程辰巳(たつみ)の方に当りて、霊験著(あらた)なる不動明王の在(ま)しまさん。同尊を崇奉(あがめたてまつ)り其宝前(そのみまえ)に生けたる鼈(すっぽん)と鰌(どじょう)とを供えて、之れに授法(じゅほう)を乞いて放生(ほうじょう)し、偏(ひと)えに信心を凝らさば平癒せん、其他に良法(よきほう)なし」と言えるに、音吉は喜び勇み夢うつゝの境も弁(わきま)えず急ぎ我家に立帰り、妻にも事の次第を語り聞け、さて不動尊は何処に在(いま)すか只辰巳の方七里程とばかりにては雲を掴む如きものと家内とりどり思案せしに、主人(あるじ)手を拍(うっ)て言えるには、夫(か)の河内国の瀧谷不動明王を指すならん、曽(かっ)て聞く此尊の霊験著なるを是れなりこれなり、と家内一同は安定しぬ。

 夫れより鼈(すっぽん)と鰌(どじょう)とを購(あがな)い求めんとて、其日の午後より彼方此方(あちこち)と駆廻(かけまわ)りて探し求めけるほどに、今方(いままさ)に俎(まないた)に上(のぼ)さんとせる鼈のあるを見て只管(ひたすら)頼み聞けて之を買求め、他に数尾の鰌を求めて黄昏に帰宅し、翌日之を携(たずさ)え当山へ参詣し是までありし次第を落ちなく拙僧に語りて授法を請いぬ。

 それより右の鼈と鰌とを放生池(ほうじょういけ)に放ち、再び本尊の宝前に礼拝祈願を籠め、其夜は深更(しんこう)に及ぶまで呪誦に余念なかりし。翌朝帰宅の上香花燈明を尊影に捧げ、家内一同信心を励みたれば参詣してより七日目の晩暫時(しばし)まどろむ間に本尊明王の現われ玉い、その側に片眼となりし鼈と鰌との本尊を拝むが如くしてありけるを、扨(さて)も不思議と思う程に目は覚たれば、捨吉を起こし右の由物語れば、私も其通りなる夢を見つと云う。

 あら有がたや是ぞ御利益の験(しるし)ならん、と直(すぐ)に親子は身を清めて尊影の宝前(みまえ)へすゝみたるに、あなとうとや大慈大悲の御姿のありありと拝(おが)まるると云うに両親(ふたおや)始めはありがたやと喜び叫んで感涙に咽(むせ)びしも道理(ことわり)なり。

 夫(それ)より親は子に代り隔夜通夜(かくやつうや)に日参を為(な)し、数週間一日の如くなりしが、参詣の初(はじめ)より一月余りにして全快におよびたる旨五週目の日拙僧に悦び告げ、報恩の護摩供を捧げて退残(たいざん)せられぬ。

―「瀧谷不動尊霊験記」より転載―

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