日本三不動の一 ロゴ 瀧谷不動尊

善因縁ぜんいんえんを得たる人の事

善因縁を得たる人の事

 大阪市東区南久宝寺町一丁目原友助(はらともすけ)と云える人、明治二十三年眼病に罹(かか)りたれば、名ある医師の治療を乞いたるに、是(これ)はうみ内障眼(そこひ)の症(しょう)なれば、治療を施さんには今猶(いまなお)早し。今後一ケ年を経過せし後来り候(そおら)えと言われたれば、手便(たより)なき事におもい更に両三(にさん)の名医に就きて診察を請(う)けたれど、孰(いずれ)も同様の見立なるに今は致方(いたしかた)もなく其儘(そのまゝ)に棄置(すてお)きたるに、病勢ますます加わり、遂には物の見分も分からぬまでに差重(さしおも)りけるものから、医師の言(こと)ばあれども如何(いかゞ)と気を操(も)み棄置難(すておきかね)て人の良しと云えることあらゆる用い試(こころ)みたれど、何の験もなく心細き言うばかりなけれど、さりとて詮方(せんかた)なきに暗の中に楽しからぬ世を送り自然盲目(しぜんもうもく)となり果つるを待つものゝ如く、本人の憂苦(ゆうく)は左(さ)こそと思われぬ。

 然るに明治二十四年二月難波一方停(ほうてい)に於て、当山開信講中(とうざんかいしんこうちゅう)の代参籤更会(だいさんくじびきかい)あり。多くの善男善女集まりて信仰する状況(ありさま)繁盛(はんじょう)言わん方なければとて、同人の娘達も亦人(またひと)に誘(いざな)われて本会(ほんかい)に趣(おもむ)きしが、其会場にて、一葉(いちまい)の摺物(すりもの)を得て何やらんと之を読むに、当山不動明王の霊験の顕著(あらた)なるよしを記されぬ。娘は歓びて、急ぎ家に帰りて父友助(ちちともすけ)にその事詳しく読聞かすれば、夫(それ)は有難(ありがた)きことなり。是(これ)ぞ不動明王の御引導(おみちびき)ならめと、悦(よろこ)び勇(いさ)み猶予(ゆうよ)もなく其翌日当山へ来たり参籠(さんろう)せられき。

 是より礼拝法則(らいはいほっそく)を方(かた)の如(ごと)く受法(じゅほう)、信心懺悔(しんじんさんげ)に一心を凝らし祈願する程に、霊験忽(たちま)ち来たりて、七日目より眼中(がんちゅう)膿出(うみい)ずること夥(おびたゞ)しくなりぬ。夫(それ)より眼状(めのたま)にいろいろと変化を来たしたけれど心に迷動(まよいうごき)なく、所謂(いわゆる)不動心(ふどうしん)を以って只管(ひたすら)本尊(ほんぞん)の大慈に縋(すが)りて、法則誦呪等励精(ほっそくじゅしゅとうれいせい)なりしかば流石(さすが)の重き膿内障眼(うみそこひ)も医士の言える日を待たで五十日余りにして全く平癒したりしかば、喜歓大方(きかんおおかた)ならず。

 拙僧(せっそう)に言えるよう、曽(かつ)て医師の言によれば迚(とて)も全快覚束(ぜんかいおぼつか)なく、設(たと)いその幾分を治(じ)するとも、一ヶ年の後ならでは治療にもかゝらざる眼病の、かくも速(すみやか)に平癒せしめ玉う本尊の大威力(だいいりき)、実に感佩(かんぱい)し奉るの外(ほか)なしと、爾来報恩(じらいほうおん)に専(もっぱ)ら心を寄せ、今は大阪開信講(かいしんこう)の世話方をもなして、講事(こうじ)に尽力し信心参詣(しんじんさんけい)怠(おこた)りなきが是は誠に良き因縁(いんねん)に値遇(ちぐう)せし人と云うべし。

―「瀧谷不動尊霊験記」より転載―

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